5月19日(水)の午後4時頃、自分の従姉妹が逝去した。
自分より4歳上の、享年65歳だった。

生涯独身を貫き、治療もせず、誰にも迷惑をかけずに天に召されたと、喪主の妹が話していた。



自分の父のすぐ上の姉(自分の伯母)は、東京世田谷の若林に一軒家を構えて暮らしていた。


自分の父と母も、そこから歩いて15分程度の三軒茶屋のアパートで暮らしていた。


山形出身の鈴木の伯父と結婚した伯母と、その弟である父の家族が、東京の同じ世田谷で、とても仲良く暮らしていたのだ。


父は、衆議院議員の鹿野彦吉(鹿野道彦元農水相の父)の国政秘書で当時二十代後半。

鈴木の伯父は、三菱重工業の技術者で、富士山頂の観測台などを手がけた。


自分は、東京都の三軒茶屋産婦人科で生まれた。


そこにいた鈴木家の方々は、自分にとっては、東京の家族のような存在だった。


自分が3歳くらいの時、高熱を出し原因が分からず東大病院に入院。


後の世界的な小児科医となる当時はインターンの平山宗宏先生が主治医となり、当時では珍しい脊髄膜炎と診断される。

3週間の入院後、自分の病は完治したが、父と母は将来を見据え、父の故郷山形市に引っ越すことを選択する。


それからも、夏休みと春休みといえば、いつも上京し世田谷の若林で、2人の姉妹と遊んでいた記憶がある。


近くの駄菓子屋に行き、若林の鈴木家の庭で、銀玉鉄砲を撃ったりして鈴木家の姉妹と日が暮れるまで遊んでいた。


大学で東京に行くと、時々、世田谷の若林に夕食をご馳走になりに伺う。


男の子がいない鈴木の伯父はことの他喜んでくれて、タバコを吹かしニッカウヰスキーの角瓶を開け、競馬新聞に赤鉛筆で書き込んでいた。


伯母は、美味しい料理をいっぱい出してくれて、母親のように明るく優しく元気をつけてくれた。


後で聞いてみると、山形から東京に行った従兄弟たち皆んなが、伯母の料理を食べて力をいただいたそうだ。


当時、鈴木家の姉妹の姉は、気高く賢く育ちが良く、色んなことを歳下の自分に意見を聞いたり質問してきたりした。

自分は高校時代応援団だったり、大学時代はディスコにばかり行っていたので、知らない世界満載だったのであろう。

自分は、得意がって話すと、「和文ちゃんは凄いね〜!流石だね〜!」と、素直に反応してくれた。


鈴木家の妹は、自分の一つ歳下で、自分ととても価値観や思考が似ており、何でも話せる存在だった。

それは今も続いている。


彼女からの、姉の死を告げる電話は、悲しさが零れ落ちていた。




5月29日(土)、鈴木家の菩提寺の実相寺で、葬儀が営まれる。


お経の最中、ずっと世田谷若林家の夕食の団欒を思い出していた。


あの頃が、皆一番幸せだったのかなぁ…。

いつも、笑顔しかなかった食卓だった。


その後、妹が結婚して家を離れ、伯父が病で亡くなり、伯母も後を追うように病で天に召された。


世田谷若林には、姉一人となったのだ。


あれから35年。

妹とは、1年に1、2度は会うが、姉とはほとんど会っていなかった。


今回の葬儀で、妹は3人の娘に恵まれ、医者となった長女と、山大医学部時代知り合った医者の旦那さんと、子供を連れての一緒に山形入り。




生者必滅、会者常離は、人の世の習いとは言え、彼女の早すぎる逝去を悔やむ。


孤独が多かった人生だったと思う。


天国では、伯父や伯母と、あの世田谷若林の団欒のように、一緒に笑って過ごしてほしい。


ご冥福をお祈りいたします。

合掌。