真夜中、午前2時過ぎ、ダイバーシティメディアの市民チャンネルをつける。


そこには、今から17年前に、自分たちが思いを込めて制作した番組が流れていた。



2002年4月放送の「山に抱かれた町」のシリーズであり、「富神山」の回であった。

そもそも、ケーブルテレビ山形の市民チャンネルのコンセプトは、「スタジオは私たちの街、主役はあなたです」であり、山形市民の息吹や四季の物語を放送しようと考えていた。


「小さいけれど、されど尊い物語」を、街のあちらこちらで探し見つけて、それを撮影して放送する。

そんな、山形の街の放送局を目指してきたのだ。


いろんなことに気がつくことで、きっとみんながこの街を好きになってくれる…そんな思いがある。

大きなニュースや事件は、キー局やネット局の報道番組で放送される。
でも、なかなか地上波では放送しない、小さいけど「価値があるもの」を流したかったのだ。



富神山の登山日記を読む、三沢朋花リポーター。
山形の町の西側にある富神山。
誰もが、気軽に登れる山である。

そこには、とても多くの思いがあった。
どれもこれも大切な思いである。



この場所を訪れる方々から、様々な話を聞く。

関ヶ原の合戦の時、豊臣方の直江兼続が、ここから徳川方の最上義光の山形城を攻めようと陣を張ったが、10日間見ていても、一向に霞が晴れなかった。

「十日見」から「富神」となった説もあるそう。
また、霧が晴れないから、霞ヶ城と言われる所以となったとか…。


自分たちの暮らしのすぐ側に、関ヶ原の合戦があった。



富神山の麓に住む中川さんからも話を伺っていた。
山と共に生きてきた人生。



久しぶりに見る「山に抱かれた町」
あっという間に番組が終わった。

手前味噌だが、なんと素敵で心に残る番組なのだろう…。
17年経っての再放送だが、満足できる番組であった。


当時のディレクターの伊藤浩くんは、既に3児の父である。
三沢朋花リポーターは、今は秘書室長として、会社全体を切り盛りしている。

2人とも、仕事は変わったが、小さな価値を大切にする思いは変わらない。



次に放送されたのが、2005年5月放送…「時代〜城下町の誕生・最上義光がもたらしたもの。
時計は、午前2時半を回る。
しかし、まだまだ見たいのだ。



この山形の町の基礎を作った最上義光公。
散りばめられた当時の足跡を辿って、山形の町がどうやってできたのかを取材した。

歴史については、専門の先生方や、古くから続いている老舗や伝統工芸の当代からも出演していただく。



山形市は城下町で、商人の町、ものづくりの町。
市なども、町ごとで開かれた。

紅花、北前船、御堰など、山形の隆盛の足跡がいたるところにある。

最上義光の山形藩は、当時は日本で5番目に大きな藩であった。

商人や職人のチカラも、とても強かった。

それが、脈々と今につながっている。



ディレクターは、今やメインキャスター兼制作企画部長の鈴木淳予さん。

カメラは小林利尚くんである。

この番組も、山形の歴史に残る方々を取り上げ、とても意義ある番組となったのである。