11月20日(月)、久しぶりに父の家に入った。
今年になって初めてではないだろうか?
母や妻は、時々来ているらしいが、自分はほとんど来ていない。
父が現役の山形市長在職中に亡くなったのは、2003年8月20日である。
14年が過ぎた。
今回、以前から親しくさせていただいている方のご家族から、婚礼の仲人を頼まれた。
モーニングも新調していたのだが、結納式は、老舗料亭「四山楼」で執り行う事となり、急遽紋付袴を着ることになった。
母と妻を従え、いや、逆だ。
母と妻につき従い、父の着物が仕舞ってある箪笥を開ける。
記憶では、父は何枚かの紋付袴を着ていた。
24年間にわたり続いていた、当時の共産党や社民党の金沢忠雄市長から、山形市政を奪還しようと、自民党公認候補として、政府の全面的な応援を受けて立候補したのが当時山形県議会4期連続トップ当選をしていた父・吉村和夫であった。
当時55歳。
そこから、3度挑戦しても、山形市の体制は変わらなかった。
3度目の挑戦の時は、盟友であり兄弟分であった、将来の総理大臣候補と言われていた鹿野道彦代議士が、2大政党を作ると自民党を出たことにより、父も無所属で市長選挙に臨んだ。
当時は、自民党の山形県1区は、鹿野道彦氏と近藤鉄男氏で二分しており、遠藤利明氏は近藤鉄男氏の秘書から日本新党からの出馬で、衆議院議員に当選された。
そんなぐちゃぐちゃな国政、政党の離合集散の中、山形市を二分した3期12年間にわたる金沢、吉村の戦いは終わった。
父は、県政史上最高得票の2万4千票を獲得して、山形県議会議員に戻った。
その後、金沢忠雄市長の後継者が、秘書室で金品の授受などの大騒動となり、秘書課長は逮捕され、山形市長選挙が行われる事となる。
結果、4度目の山形市長選挙で、父は初当選を果たす。
しかし、任期半ばで病魔に勝てずに他界したのだ。
ほとんど、父の違品は整理していないが、いずれキチンと整理したい。
袖を通してない状態で出てきた。
新品を14年ぶりに陽の光に当てたのである。
全てを自分の家に持ってきて着てみた。
まさに、父の形見であり、自分に残してくれていたと思った。
そこで、父が袖を通してなかった紋付を、自分が着て歴史を繋いでいる。
感無量であったのである。