東西を結ぶ幹線は最初は中山道が有力だった | 停車場遍路の鉄道雑記帳(副)

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「日本鉄道成立史」(井戸田弘著)という書籍によれば、東西両京(東京・京都)を結ぶ幹線のルートを当初は中山道沿いで検討していた理由が幾つかあるそうです。

まずは、海岸沿いは既に海運が発達していたからです。鉄道は船より速いですが、急ぐ価値や必要性のある品物のみが対象となるので、当時輸送手段が人馬である内陸を経由してこそ意味があると考えるのはもっともな話です。

外国船からの砲撃を避ける防衛上の理由や、うっかり幕府がアメリカに与えた鉄道敷設権より前に別ルートの幹線鉄道計画が存在したとカムフラージュする狙いもありました。

ただ、実際中山道ルートの調査をしてみると地形が険しすぎて建設費かさむわけで、東海道ルートへの変更を検討するようになります。移動するだけでも難儀だった時代ですから、蓋を開けて初めて分かることも多かったでしょう。

この続きはいずれ別の記事で。