大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜十六回(1)ー①商人・朱仁聡と藤原為時 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ


大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



※2024年7月6日17:20に追記、タイトルも修正しました(>人<;)

 

いや~、越前赴任から第26回までの『光る君へ』は怒涛の展開でした驚き

この時期に起きたことについてザッとまとめてみました ^ ^

 

第十六回 長徳三年~四年の危機的状況 

 

 

(1)朱仁聡と松原客館

①商人・朱仁聡と藤原為時

『光る君へ』第21回から登場した宋の商人・朱仁聡。

朝廷に贈り物をしたり、どこか含むところのある人物ニヤリとして描かれています。

彼は永延元年(987年)から数回にわたって日本にやって来た実在の商人で、若狭・越前を拠点に活動していました。

永延元年十月の来日では、それを知った『往生要集』で有名な僧・源信とその弟子の寛印が敦賀に赴き、面会した仁聡が彼ら二人の学識の高さに驚いたという逸話が残っています。(『続本朝往生伝』)

長徳元年(995年)八月の末ごろに朱仁聡ら70余人が若狭国に来航し、対応が問題となります。道長は九月四日に「唐人来航の文」を一条天皇に奏上(『台記』、藤原頼長の日記)五日に陣定を開き、六日に来着者を越前国へ移すことが決まります。

 

長徳二年に越前に赴任した藤原為時は、仁聡をはじめとする来日した人々と漢詩を唱和するなど、交流を深めたといわれます。特に羌世昌(周世昌)とは漢詩の贈答のやり取りがあったらしく(『今鏡』)平安中期の漢詩集『本朝麗藻』に世昌に贈った七言律詩が載り、『宋史』にも為時とみられる人物が作った詩を唱和したという記述があります。(ただし、『本朝麗藻』と『宋史』の記述には五年の差があり、世昌の氏は羌ではなく周とされて異なっている)

『宋史』では、帰国した世昌がその詩を披露したけれども「飾りすぎて意味が浅い」と酷評されたうーんと続きます。どうも宋の人たちからすると、たどたどしい印象があったようです。

しかし想像してみてください。外国の人と初めて会って、初めてやり取りするのです。ネイティブと会話する機会などなかったでしょうし、国内だけで同じようなレベルの人とやっていれば、そう受け止められても仕方ありません。何より、今と違って情報(トレンド)にも時差があるわけですからショボーン

また、赴任に従った紫式部も宋人を見に行った可能性が高いとされています。それは

春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき) 

いや積もり

解くべき程のいつとなきかな雪

(春だけれども、白嶺=白山の深い雪にはさらに雪が積もって、いつ解けるのかも分かりません)

※訳は私訳※

という歌の詞書に、「唐(宋)人を見に行こうと思っています」と紫式部に手紙を送った人物がいるとあって、このことから式部も宋人の存在を認識していたと考えられます。ちなみに、その手紙を送った人物というのは、あの藤原宣孝であるというのが有力とされています。

 

 

右矢印(1)-②に続きますニコニコ