大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
④春日大社行幸
兼家は道隆の任内大臣と並行して、一条天皇の春日社行幸を巡って兼家と円融院は対立します。石清水八幡宮など天皇家所縁の寺社と違って、春日大社は藤原氏の氏神です。しかも大和国に鎮座しているので、天皇が山城国から離れるということで公卿からの反発も多かったのです。現代の感覚でいうとピンとこないかもしれないけれど、移動手段は徒歩か馬
厳重な警護の必要性を考えると一大事です
五日、兼家が春日社行幸が人々の夢なので三月二十三日に行いたいと奏上したのを皮切りに、両者の攻防が始まりました。
円融院は、
二月十一日 天台座主と安倍晴明に命じて
一条天皇のために加持祈祷
十三日 陰陽寮の賀茂光栄に
「不快の由」を示した文書を
出させる
三月十二日 希望日は物忌が重なっている、
「夢想」もよくなかったので
延引するよう兼家に指示
十三日 行幸延引の宣旨
対する兼家は、
十五日 「不快の夢想」「怪異」
を理由に行幸を強行するべく
陰陽師に問う
十六日 再度行幸を行うべきと
円融院に奏上
このように、両者ともに引かない状態
これを一変させたのは十九日。北野天満天神、菅原道真が詮子に乗り移って「行幸を行うならば、近く起こる内裏火災から護ろう」という言葉を発するという事態が発生
これに円融院は恐怖し、譲歩することになるのです。
こうして予定通り一条天皇は三月二十二日早朝に詮子と共に内裏を出て、午後八時ころに春日社の宿泊先に到着しました。
天皇が山城国を出たのは815年の嵯峨天皇の近江行幸以来、何と174年ぶりのことでした。
翌日の二十三日、一条天皇が春日社での御前舞などを見たりする中、兼家は藤原氏の大臣以下の者の頭に藤の花を挿して参列させ、権勢を誇示したのです。
こうした兼家の絶頂期の中で、実資は円融院直々に数々の功績から「公卿無数有れども公(天皇)を思し奉るを無きを、向後は必ず御後見仕れ、又行幸有らむ次に其の由を申すべし」という言葉を頂きます(永祚元年十二月五日)平たく言うと、「公卿はたくさんいるけれど天皇(一条天皇)を思ってくれるのはお前(実資)しかいない、今後も天皇の後見をよろしくまたこちら(院)に天皇が来た時のついでに(実資が頼りだと)そう言っておく
」という、何ともありがたい言葉。なのですが・・・
既に実権は兼家(九条家)に移っているし、実資にとっては父親世代に当たる兼家との衝突は避けたいところがあったので、円融院の過度な自分への頼られ方は、案外微妙なものだったのかもしれませんね
(3)ー①に続きます