大河ドラマ『光る君へ』“勝手に”解説~第六回補足 元慶寺と花山院 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



 

 

 

第六回補足~元慶寺と花山院

寛和の変のクライマックスの場となってしまった元慶寺(がんぎょうじ)とは一体どんなお寺だったのでしょうかはてなマーク

その創建は868年(貞観十年)に藤原高子(清和天皇女御)が寛明親王(のちの陽成天皇)誕生に際しての発願お願いによるものです。正式名称を華頂山元慶寺といいます。開山は「六歌仙」として有名な天台宗の僧正(=僧官の最高位)遍昭(遍照とも書く)平安京の東郊である山科の花山(今の京都市山科区北花山河原町)に位置しています。このため遍昭は“花山僧正”とも呼ばれました。建立後の877年(元慶元年)に陽成天皇の勅願寺(天皇や上皇等が特に願って建立されるお寺のこと。しかしその殆どが既存の寺を指定する形が採られている)となり「元慶寺」と名を改めます。宸影が安置されるなど、花山天皇ゆかりの寺であることから西国三十三所番外札所となっています。平安末期からの度重なる火災炎等によって衰退、現在の建物は安永年間になって再建されたと伝わります。なお、今の呼び名は「がんけいじ」

 

一方、出家した花山天皇の居所となったのが、その名もズバリ「花山院」という場所です。

花山院は平安京の近衛大路南・東洞院大路東(平安京左京一条四坊三町、今の京都御苑敷地内)一町を占めた邸宅家です。元々は藤原冬嗣が居を構えた小一条殿があった場所で、それが良房に伝わり、文徳天皇女御の明子はここで清和天皇を出産赤ちゃんしました。のちに清和天皇の皇子・貞保親王の邸宅になりますが、藤原忠平に伝領されると「花山院」として整備されます。

師尹→師輔→安子へと引き継がれ、生後間もない憲平親王(のちの冷泉天皇)の立太子礼が行われました。その縁から出家後の花山天皇はここを「院」(退位した天皇の住まい・御所)とし、息を引き取ったのもここでした。そのため追号(通称とほぼ同じ意味)が花山天皇(法皇)となったのです。

 

え、じゃあ花山天皇は皇位にあった時にはなんて呼ばれていたの!?となる方もいらっしゃいますよね?

そもそも古代においては、尊い身分(高位の官職)の人の本名を公式の場所で家族以外が呼ぶことは無礼とされていました。(実名敬避)これは「名前を呼ぶのは上に立つ主君や親のみに許される」という考えに基づいています。

名前というのはその人の霊的な人格に結びついているので、本名を呼ぶことでその人を支配することができる(呼んだものが上位になる)からです。例えば実資なら、居住する場所と官職を組み合わせて「小野宮右大臣」と言ったりするのはこのためです。

では天皇の場合はどうかというと、在位中は「ミカド」「御上(オカミ)」「主上」などという敬称で呼び、退位すると追号を定めます。また単に「先のミカド」とか居所(院や里内裏)、主な年号などを冠して表されます。

 

さて、花山院邸宅自体は藤原娍子(藤原師尹の二男・済時娘で三条天皇皇后)→藤原頼道→藤原師実に引き継がれ、師実二男・家忠に伝領された時に「花山院家」という家号を名乗ることとなりました。なお、建武の新政崩壊後に後醍醐天皇が幽閉右矢印脱出したのがこの花山院です。現在は京都御苑内に花山院邸跡地として整備され、元の花山院内にあった宗像神社が鎮座しています音符