長岡を訪れるのは2回目です。前回は北越戦争の歴史に欠かせない河井継之助の史跡巡りを行いましたが今回もその続きの2回目ということで長岡~小千谷の戦場跡を回って当時に思いを巡らせました。一応戦いの時系列に並べてみました。
①榎峠、朝日山
長岡から小千谷に向かう信濃川に架かる越の大橋の先に榎峠の史跡があるとのことで寄ってみます。榎峠は河井継之助が小千谷会談の後に戦闘の緒戦が開かれた場所です。
北越戦争の緒戦となったのがこの榎峠です。新政府軍が占領していた榎峠を長岡藩(奥羽越列藩同盟軍)が奪還し一旦は榎峠、朝日山を確保し戦局を優位に進めていました。
その後、新政府軍が信濃川を渡る奇襲をかけて長岡城を落城させるなど戦いは混沌としていくのです。
榎峠からは信濃川がすぐそこですね。
朝日山の激戦地にも案内が出ていました。榎峠、朝日山の戦いは同盟軍優位で進められたため新政府軍は奇襲をかけて長岡城を奪還することになります。
②西軍(新政府軍)上陸の地
奥羽越列藩同盟軍優位の戦況打開のために視界不良の中新政府軍は増水した信濃川を渡って長岡城に迫りました。新政府軍の奇襲が成功したことで城下は火の海となりました。長岡市内の西方、信濃川流域に新政府軍上陸の碑があるとのことで訪れてみます。
榎峠、朝日山の戦いが続いて膠着状態の中新政府軍は突如増水して渡れないはずの信濃川を強行渡河し長岡城に迫りました。不意を突かれ長岡藩兵は大混乱に陥りました。奇襲戦法により形勢の打開を図った戦いでした。
上陸の地から長岡城に近づいた場所にある西福寺ですがここの寺が維新の暁鐘と呼ばれています。
5月19日早朝増水した信濃川の防御ラインが破られて新政府軍が一気に長岡城に迫ってきたことで城下はパニックに陥ります。その際に上陸に気が付いた長岡藩士はこの西福寺の鐘を力の限り乱打して危険が迫っていることを知らせた伝わります。
藩士は命がけで鐘を乱打し続けて広く危険を知らせたことでしょう。
④大黒の戦い~八丁沖渡河
長岡市内から北東に北越戦争伝承館(大黒古戦場パーク)があります。ここは地域の住民から見た北越戦争のありさまを伝える施設ということで楽しみです。
ここは大黒古戦場パークですが慶応4年(1868)の夏このあたりは北越戊辰戦争最大の激戦地となり、長岡城奪還を狙った奥羽越同盟軍と新政府軍との間で幾度も激闘がかわされた場所でしした。
伝承館1階は郷土の偉人を伝えるコーナー、2階が北越戊辰戦争コーナーになっています。
館の2階から見えるのは一面の田園風景ですがここがかつての八丁沖です。慶応4年(1868)の7月24日の深夜河井継之助率いる長岡藩兵約600名がこの湿地を渡り一気に長岡城に奇襲をかけ奪還し返したという場所です。
まるでドラマの様な筋書きでここを左方向から右方向の長岡城目指して深夜に秘密の行軍が進んだ次第です。映画「峠」でもドラマチックに描かれていました。河井継之助の手腕が発揮された歴史の実際の場所です。
この北越戦争で最も使用されたのがエンフィールド銃であり両軍が銃で激しく交戦したとのことです。
まだこの時期はエンフィールド銃が主流だったようですが前装式なので後時代に後装式銃に取って代わられることになります。
長岡城奪還までは長岡藩にも一部の望みがあったようですが、新政府軍が海路より大量に武器や兵を運び入れたことにより形勢が一気に逆転、長岡藩は追い詰められていきます。やはり河井継之助が銃撃されて重傷負ったことが士気に影響したようです。
パーク内には山本五十六揮毫の戊辰戦跡記念碑が建ちます。
北越戊辰の戦死者の供養塔が建つなど多くの戦死者を出した古戦場跡です。合掌。
同じく激戦の大黒古戦場の碑です。
⑤最後に 司馬遼太郎の峠の碑
最後に長岡から小千谷に向かう途中ですが北越戦争の緒戦が行われた信濃川に架かる越の大橋のたもとに司馬遼太郎の碑が存在します。
ここは北越戦争の初戦となった榎峠からすぐで朝日山もすぐ近い場所です。ここに碑が建てられたほど司馬遼太郎の思いが詰まった場所という事でしょう。
私は司馬遼太郎の「峠」は当然読んでいますし映画も観ました。筆者の碑文によるとは武士の世の終焉と北越戦争における緒戦の榎峠とが重なったものが「峠」という言葉に集約されているという事です。
司馬遼太郎もここ北越戦争においての長岡の悲運の運命に心を揺さぶられたようです。
1968年の5月2日の小千谷談判から対立から長岡藩の奥羽越列藩同盟参加、榎峠の戦い開始、新政府軍の長岡城攻略、長岡藩の長岡城奪還、長岡城再落城、河井継之助死去、9月25日長岡藩降伏と目まぐるしい約5か月間が過ぎた場所でした。あまりに激しく悲しい史跡を目にしました。司馬遼太郎さんも「峠」を書かざるを得ないほど悲運の歴史を書き残したかったのでしょう。帰路に付いてまた「峠」を読み返したくなりました。
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