全国のパワースポット巡りをライフワークにしている歴史好きな私としては忠臣蔵の史跡巡りは最も楽しい活動の一つです。東京に来たタイミングで鉄板の忠臣蔵関連を巡る旅に出ていま全国のパワースポット巡りをライフワークにしている歴史好きな私としては忠臣蔵の史跡巡りは最も楽しい活動の一つです。東京に来たタイミングで鉄板の忠臣蔵関連を巡る旅に出ています。
永代橋から途中端折りましたが十数年ぶりに泉岳寺を訪れることができました。泉岳寺は1612年に徳川家康によって創建された曹洞宗の寺院です。もともと外桜田にあった泉岳寺は火事で焼失し高輪の地で再建されました。その頃より浅野家との付き合いが始まったと言われます。
最初に見えているのは中門です。今はビル街の中にあって窮屈そうな外観ですね。
境内の案内板が出ていましたが、入って左手に浪士の墓所が並んでいます。大石内蔵助の銅像なんてのもありました。
泉岳寺の縁起についての案内板です。
ちょうどこの日は春の義士祭が開催されていました。
こおご立派な門は山門です。義士祭の期間だけか屋台も出ていますね。
まずは本堂にお詣りいたします。
境内入って左手になりますが赤穂義士墓地が存在します。桜がちょうど見頃で良かったです。
墓所入口の門は浅野家上屋敷の裏門を移築したものです。
この日は入り口で線香の束(300円)で買って墓前に進みます。
赤穂浪士一人一人の墓が並びます。皆の名前を知っているわけでは無いですがそれぞれ一人一人に線香あげて合掌することにします。名称の頭に自刃のため「刃」が付いています。
吉良上野介が在宅である情報を入手し一気に討入を決行に導いたのが大高源五です。大高は俳人でもあり両国橋のたもとに彼の俳句碑が建っていました。
右は堀部安兵衛の墓です。浪士の中で最も討入を主張して急進的リーダであったと伝わります。
原惣右衛門は長矩公切腹と赤穂藩取潰しの衝撃の知らせを国許に伝えた人物ですね。47士の其々のキャラクターに踏み込むのも慰霊になりますよね。
こちらが大石内蔵助の墓です。浪士たちを本懐に導いた強いリーダーと言える内蔵助ですが、主君の仇討ちを最初から考えていたのか、実際に討入決行をいつ決めたのか、計画を隠し通すために昼行燈を演技していたのかなど歴史ドラマの中で扱われる謎が多かった人物です。
こちらは内蔵助の長男の大石主税の墓です。吉良邸討入の際は裏門のリーダーでしたが若干十六歳にて切腹となりました。
この墓所周りには線香の煙が立ち込めて墓所全体が煙に包まれていた印象です。義士祭の期間ということで多くの人々がお詣りに来ているようです。
忠臣蔵の中心人物で松の廊下の殺傷事件で即日切腹となった浅野長矩公のお墓です。無念の切腹だったと思いますがその無念を大石内蔵助以下47士が晴らしてくれました。
こちらは長矩公の正室・阿久里の墓です。長矩公の切腹、赤穂藩の改易のより辛い人生を歩むことになったと思います。
泉岳寺にもありました。義士一行は吉良上野介の首をこの井戸で洗って浅野長矩の墓前に奉げたと伝わります。
浅野長矩公切腹の際にその血がかかった梅と石とのこと。
赤穂義士記念館にも立ち寄りました。榎本武揚の赤穂浪士を讃える書状に感激しました。
泉岳寺からの帰路はJR山手線になりますが、まだ行ったことがたい駅がありますので向かってみます。周囲はまだ開発工事が行われているようで歩き難いです。
新たにオープンした高輪ゲートウェイ駅ですがものすごい駅ビルの中にあるようです。泉岳寺にかなり近いので駅名に泉岳寺を入れても良かったのにと思いましたね。ゲートウェイって何?という印象でした。
初めて乗ります高輪ゲートウェイ駅です。
何もかも綺麗で明るい駅です。
駅から田町方面の景観が素晴らしいですね。前途洋々という印象です。
ちょうど桜の満開の時期に泉岳寺にて赤穂浪士の墓参りができて良かったです。(24)