福岡県朝倉市秋月という地は知名度は全国的には今一つですが、戦国時代には勇猛な武将・秋月種実が豊後の大友氏と抗争を繰り返しながらも古処山城を拠点に九州北部一帯に大きく勢力を広げていました。その後秀吉の九州征伐により領地は没収されましたが、江戸時代に入り関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千石を与えられ福岡藩を興した黒田長政の遺言により三男の長興に分知したのが秋月藩5万石で、翌年長興が築城し居城したのが現在の秋月城です。現在も周囲には城下町の佇まいが残り散策して回るのも楽しそうです。小説「秋月記」の舞台になったこの地の歴史スポット探索に出かけました。

秋月は三方を山で囲まれた盆地にあります。中世に秋月氏が古処山に山城を築き近世になって黒田氏が現在の街並を創りました。春の風が心地よいです。

ちょうど秋月は春の雛めぐりのシーズンとのことであちこちに臨時の駐車場が設置されていますので車を停めて散策に出発します。

秋月の城下町の街並みには秋月城の史跡スポットが集まっており地図を見ながら徘徊することも楽しそうです。

駐車場からお城跡への道は江戸時代は馬の調教の場としての杉並木道でしたが日露戦争の戦勝記念に200本の桜に植え替えられたそうで今は約500mの桜のトンネルになっています。桜の時期に来たいですね。

まず見えて来た石垣ですがここは藩校の稽古館跡です。

現在は朝倉市秋月博物館が建てられています。

葉室麟さんの小説に登場する稽古館がここにあったと感動しました。

全国的に藩における文武修業が奨められたご時世に秋月藩では7代藩主の黒田長堅により1775年に最初の藩校が立ち上げられたとのことです。

進んで行くと城の石垣を感じさせる景観が見えてきました。その上には学校らしき校舎が見えてきます。

さらに石垣にはお洒落な濠に架かる橋?坂道が造られているのが分かります。

かつて秋月城の前面の大手門(表門)に続く坂道です。

この橋は瓦が敷き詰められた珍しい造りになっています。当時はこの奥に黒門があったとのことです。

石垣の周りに城の空堀らしき構造が見えてきます。

校門周辺には石垣周辺から木々が大きくなって鬱蒼とした雰囲気を出しています。

石垣の間に見えるのが先ほど垣間見えた秋月中学校の正門です。

秋月城城跡(表御殿)に建つ学校という事で校庭をチラと見させていただきましたがいきなり稽古館の教えに迎えられます。

タイムスリップしたようななんと素晴らしい景観の中に建つ校舎でしょう。古くからの教えと素晴らしい景観の中でのびのびと育つ生徒が想像できます。

杉の馬場をさらに進むと秋月城の長屋門が見えてきました。石段も壮観ですが雛めぐりの期間には約600体の雛人形がこの石段に飾られます。

建てられた当初の位置に残る唯一の史跡です。

さらに進むと立派な黒門が見えてきました。元々旧秋月城の大手門として瓦坂の奥に建っていましたが現在移築されて神社の参道に建ちます。長屋門と共に福岡県の有形文化財に指定されています。

黒門の先には立派な石段が続きます。

石段を登りきると再び鳥居が現れました。

初代藩主の黒田長興を祀る垂裕(すいよう)神社です。現在の秋月の街を見守ります。

そして城下町の外れになりますか野鳥川に架かるアーチ状の眼鏡橋を見つけました。これは葉室麟さんの小説「秋月記」で読んだいわく付の橋ですね。花崗岩を用いた石橋は日本でも珍しく福岡県の指定有形文化財に指定されています。

8代藩主黒田長舒の時に財政難の中で長崎から石工を呼んで石橋を造りますがなんと完成後に崩落してしまいます。長舒は亡くなり3年後に新たに完成するといった苦労を重ねた橋です。詳しくは小説をお読みください。

城下町の散策もたのしいですがそんな秋月城の門前すぐの場所にある武家屋敷久野邸を訪れます。

黒田長興の時代から黒田家に仕えた上級武家の家柄だそうです。

印象としては予想よりも住居がかなり広いのに驚きました。天井や縁は低いので部屋自体は狭いですが襖を開けると一続きで広く感じます。

この時期ですので雛かざりが美しかったですね。

座敷から美しい池泉回遊式庭園を眺められます。

さらに二階に上がるとさらに眺めが広がります。庭はもちろん周りの山々も一望できて季節を楽しめる作りです。

さて秋月種実について北部九州の大友勢を駆逐することで当時筑前・筑後・豊前にまたがる十一郡36万石の大名に上りつめるほど栄華を誇りましたが、秀吉の九州征伐の前に屈服することになります。種実、種長親子は最後まで抵抗していましたが結局は秀吉の前に頭を丸めた僧形になってひれ伏して詫びることになりました。その際に天下の名器と賞された楢柴を献上したため秀吉が機嫌を直し死罪を免れたといわれています。その後種実は高鍋に流され3万石の小大名へと転落し秋月に二度と帰ることはなかったようです。

秀吉はここ秋月に3日間滞在したとのことでしたのでその史跡が無いか調べてみましたらありました、秀吉の腰掛けた石です。

また種実、種長親子に降伏を勧めて腹を切った家老の恵理蔵之助の話が伝わりますので訪れてみます。

秋月家の家老恵理内蔵助は秀吉の九州入りに先立って広島にて秀吉に目通りしましたがあまりの陣容と軍備の凄さに圧倒され「勝てる訳ない」と種実、種長親子に降伏を勧めましたが受け入れられず、逆に臆病者と面罵されたため妻と娘と共に自刃しました。

この岩の上で腹を切ったとのことで腹切岩と呼ばれています。たいへん気の毒な話でした。

この少し奥にはひっそいりと鳴渡観音が置かれています。

悲劇の恵理内蔵助の墓石を祀って建てられた観音堂とのことです。合掌。

近くには黒田家菩提寺の大涼寺もありました。

約2時間の散策でしたが筑前の小京都と呼ばれる街並みや歴史的な史跡を見学できて有意義でした。小説「秋月記」の舞台となった場所を歴史と共に実際に確認できて楽しかったです。

まだ風は冷たかったですが確実に小京都に春が近づいているのを感じました。(35)