熊本市内から車で初めて田原坂を訪れます。言わずと知れた西南戦争の最激戦の地ですで一度は訪れてみたかったスポットです。田原坂公園は熊本城から約17キロ北方向になります。籠城戦となった熊本城は手詰まりのため久留米方面から南下してくる官軍を迎え打つために薩摩軍が待ち受けたのがこの田原坂です。明治10年3月4日から20日までの間17昼夜にわたる激闘が繰り広げらました。当初西郷軍は陸路東京へ向かう予定でしたが熊本で足止めされてしまい大きく計画の変更を余儀なくされました。

熊本市街から車で30分ほどで田原坂の看板が見えてきました。

最初に公園内にある資料館に寄って情報収集等行ってから田原坂を通ってみたいと思います。

田原坂公園の入り口です。田原坂公園と田原坂の坂道は国史跡に登録されています。


田原坂と言うとガイドでよく目にする弾痕だらけの家です。田原坂の頂上に存在した松下彦次郎家の土蔵ですが両軍の激しい銃弾を受けてボロボロにされたという事でその様子を写真を基に復元したものです。

復元ですが銃弾跡が生々しくその激しさを伝えてくれています。

元々の土蔵についての解説板がありました。

田原坂西南戦争資料館を訪れます。外観がたいへん綺麗な建物でした。

西南戦争の背景はご存じでしょうから割愛しますが1877(明治10)年2月22日西郷隆盛の薩摩軍が熊本鎮台を強襲しそれに対して官軍は城に籠城します。久留米方面から官軍の支援を阻止するため薩摩軍が田原坂で迎え撃つ形で3月4日に激闘が始まります。17日間の激闘の末薩摩軍は破れ3月20日をもって田原坂は官軍に制圧されてしまいます。

2月22日~4月14日の約50日の間、熊本城では籠城戦が行われましたが薩摩軍は攻め切れなかったのです。当初から薩摩軍が熊本鎮台をなめていたのが原因と言われます。2-3日で制圧できると思っていたようです。

右に掲げられた旗は政府軍の乃木少佐が植木の戦場で薩摩軍に奪われたと言われる連隊旗のレプリカです。乃木少佐は明治天皇崩御の際に殉死してますがその遺書に西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための自決と遺しています。

薩摩軍はあまり戦争をする格好には見えにくいですね。

政府軍の恰好はより洋式で強そうに見えますね。

銃の進化も戦いには重要ですね。ケベール→エンフィールド→スナイドルと進化していきます。

資金不足に陥った薩軍が佐土原で発行した西郷札が展示されていました。後で紙切れ同然になったので取引させられた商家は大損害だったでしょう。総額で14万円、現在の28億円とも言われています。

それでも西郷人気は高く西郷札を御守り代わりに持っていたという話は興味深いですね。私も今手に入れば欲しいです。

季節が良ければツツジが咲き乱れるのを眺められることでしょう。

眺望は素晴らしいですね。右の方には木場山と手前が田原坂です。

田原坂の戦いの陣地を立体的に現したものが分かりやすいです。当時大砲を通せる道はこの田原坂しかなかったとのことでした。

資料館から三の坂辺りを見下ろすことができます。ちょうど車が通っています。まったくのどかでここが戦地だった感は全くないですね。

この辺りはイノシシが出没するとのことで注意喚起がされています。当時なら捕まって食料にされたでしょうね。

”雨は降る降る人馬は濡れる~ 越すに越されぬたばるざか~”の唄にも出てくる美少年の像がありました。確かに右手に刀を握り左手で手綱を操っています。この美少年とは誰なのかというと薩摩軍における二番隊指揮長の村田新八の長男・村田岩熊ではないかと言われています。植木の戦いで戦死してますが実物写真を見てみたいです。

西南戦争戦没者慰霊碑が建っていましたので合掌します。どこからも見えるように塔は高く12.5メートルもあります。

後ろのボードは最初見た際には模様かと思いましたが実際は薩軍、政府軍ごとに戦死者の名前が書かれていて驚かされました。その数は官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名にものぼります。多くの若い人の命が奪われた戦争でした。

公園の奥に田原坂崇烈碑という碑が建っていました。興味深かったのは西南戦争の意義を官軍の立場から述べた碑文で、薩摩軍の北上を南関(熊本)で食い止め西郷隆盛が起こした戦乱が全国に広がるのを止めたことに田原坂の戦の勝利の意義があったと。

田原坂の17日間の戦いで4千人もの死傷者が出たと書かれています。

公園の中に建つ大楠の木です。

さてこれから実際に田原坂を車で通ってみます。資料館をスタートし眼鏡橋まで向かいます。

薩摩軍から取り囲まれた熊本城から決死の脱出を図り内部の連絡を行った谷村計介の戦死の碑が建っていました。

三の坂を通過します。加藤清正が熊本城の北の守りとして切通しの曲がりくねった道を通したのだと言われます。

両側が土塀のように細く視界が悪く危険を感じます。

二の坂を通ります。

竹藪から兵士が出てきたり藪から狙撃されそうで恐怖感があります。

道が細くなった箇所は特に要注意です。

一の坂まで来ましたが車ではほんの10分くらいで通過してしまいます。歩いても良かったかなと思いましたが少し怖さもあります。

国道31号線の入口に着きました。ここ正面の小道から田原坂を目指して行軍していったのでしょう。

ここにある豊岡の眼鏡橋はおよそ200年前に作られたアーチ型の石橋です。

熊本最古のものだということでこの橋の上を何人もの官軍兵士や大砲が通って行ったことでしょうね。

この後は田原坂周辺に西南戦争の史跡を見て回ります。

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