人吉からそれほど遠くないので一度訪れたかった鹿児島県えびの市へ向かいます。えびの市は島津義弘が長く住み活躍した地ということで史跡が存在するとのことで訪問してみます。

人吉から高速を使ってえびの市へ向かいます。高速と言ってもトンネルの多いことに驚きます。それだけ山間の地という事でしょうが長さ6キロ越えの加久藤トンネルとかなかなか運転も緊張します。トンネルの途中で県境を越えて鹿児島県に入りました。ようやくえびのインターを出てホッとした瞬間です。

まずはICを出てすぐの道の駅えびのに情報収集のために寄ることにします。大きな看板がでているのですぐ分かりました。

そしてこの道の駅の駐車場に少し周りと違和感のある武将の銅像を発見しました。知らない人は何した人だろうと思うのではないでしょうか。

島津四兄弟の次男の島津義弘公です。若い頃よりこのえびのを中心に日向・薩摩・大隅の三州を統一するなど猛将の名を欲しいままに活躍しました。ただ実際には島津義弘と言えばかなり後の家康時代の関ヶ原の戦いの敵中突破があまりにも有名ですね。

義弘は秀吉に徹底抗戦したものの結局は降参、朝鮮出兵で活躍して敵に恐れられたと伝わります。関ケ原の戦いでは西軍となりますが戦闘には参加せず東軍の勝利が決まると敵陣中央を突破して命からがら薩摩にたどり着きました。

義弘はこの地にあった飯野城に26年間住んだということですのでこの木崎原周辺には多数の足跡が残ります。地元の英雄と言っても良いでしょうね。地図の①②③に注目したいです。

次に道の駅の観光案ににて道順を確認して木崎原古戦場へ向かいます。車で約10分と聞きましたが道が分かり難かったので少し迷いましたが看板を見つけてホッとしました。太刀洗という地名も古戦場が近い事を現していますね。

やっと木崎原古戦場跡が見えてきました。飯野城を拠点とする島津義弘は日向の伊東義祐との抗争を長年続けていましたが、1572年この近くにあるの加久藤城が攻められたことでこの木崎原にて伊東氏と激しい戦闘になった土地です。

この周辺に史跡が集まっていることが分かります。全て回るのは難しいでので主だったものだけ歩いて見学することにします。首塚とか太刀洗川とか一人で訪れるのは少し躊躇しますね。

古戦場の看板があり激しい戦いの両軍の配置や動きが分かります。加久藤城には義弘の妻と付家老がいたようで飯尾城の義弘が救援に向かったようです。ここで伊東氏と激しい戦闘になったということです。

この戦いでは島津軍300人に対して伊東軍3000人で戦い島津軍が圧勝したために南九州の桶狭間とも言われています。島津得意のおとり作戦・通称釣り野伏戦法がさく裂し伊東軍は大混乱に陥ってしまいます。

回りを見わたしてみると周りは山に囲まれた盆地状の地形で関ケ原と同じような地形であることが分かります。

奥に建つのは木崎原古戦場の碑ですね。伊東軍だけでなく島津軍も多くの人がこの場所で命を落としたと伝わります。

認知度は今一つですが木崎原古戦場に勝ったことで伊東氏は没落し豊後の大友に助けを求めることになり今度は島津と大友の戦いに発展します。そして大友は劣勢になると豊臣秀吉を援助を求めたことで秀吉に九州征伐のきっかけを与え征伐軍が大挙して九州にやってくることになります。そして義弘も結局は秀吉に屈服し家臣として朝鮮出兵へと駆り出されることになるわけです。

また近くには島津義弘が両軍の戦死者を供養したと言われる供養塔があります。島津家では合戦の後には敵味方関係なく供養するという習わしがあるそうで義弘も慈悲深く、戦勝後に敵も味方もこの六地蔵に弔ったと伝わります。

今年の台風の影響か大木が折れて倒れかかっていました。

このコスモスが咲き乱れる地に三角田の案内板が出ています。

戦闘中に深入りし過ぎた義弘を退かせるために六重臣が犠牲になった地ということです。

また古戦場跡には島津義弘公が祭神ととして合祀された池島神社が鎮座します。

恐らくは武運が上昇し勝負ごとに御利益のある神様ではないでしょうか。

さらに関ヶ原の最中に義弘が詠んだ歌碑が建っていました。『いそぐなよまた急ぐなよ世の中の定まる風の吹かぬかぎりは』 敵中突破に臨むまでの義弘の決意を詠んだ句と言われています。

すぐ横を吉都線の電車が通過していきました。

ということでせっかくなので吉都線・えびの駅に寄ってみることにしました。お洒落な駅舎の無人駅です。

1912年に開業した当時加久藤駅の名称だったということですが、当時の木造駅舎が貴重な歴史的遺構であるということで国の登録有形文化財に登録されているとのことです。

ホームにも出てみましたが無人駅でも趣があってとても素敵な雰囲気の駅でした。

時間があれば近くの飯野城や加久藤城へも行ってみたかったですが時間がかかるようなので今回は古戦場の雰囲気のみを味わってこのまま退散することにします。義弘の史跡は他の地域にも点在しますので足跡を追う旅を実施したいと思います。(25)