今年2回目の函館の訪問ですが今回は北海道の開拓に功績を残した榎本武揚にスポットをあててその足跡を追いかけてみました。榎本武揚ほど功績をあげたのに評価が低い人はいませんが非常に中身の濃い人生をおくられたようです。(2014)
まずは空港から約10キロ、知る人ぞ知る四稜郭を訪問します。五稜郭に比べると規模も小さく知名度も低いですが旧幕府軍が五稜郭の背後を守る為に築いた土塁の要塞です。蝶が羽を広げたような形で建物はありません。
四陵郭は人影はほとんどなく公園のようになっていますが、土塁の全景は見てとれます。4,5分あれば周りを一周できますし、土塁の中で犬の散歩をさせている人もいました。 建物は無く四隅には大砲を備えていたと言われます。
土手は2,3メートルで上に上がろうとすれば上がれます。ここでも多くの旧幕府軍が抵抗を行い新政府軍を苦しめましたが、権現台場が落ちたことにより孤立することを恐れてここを捨てて五稜郭へ逃げました。
そして函館より江差へ向けて国道を走ること約25キロ、道路の脇に二股口古戦場の激戦の跡地を訪れます。旧幕府軍と政府軍が二度にわたり激突し、700名の新政府軍に対し300名の少数ながら負けなかったと言われ何度も新政府軍を押し返し、旧幕府軍にとってはその魂を顕示した場所と言えます。
現場はこの入口からさらに20分も奥に歩かなくてはなりませんが、さすがに一人では危険、熊もでそうな山の中ですからここで雰囲気だけを確認しました。まだ兵士が走り回り弾を打ち合っているかもしれないですね。
路傍らにはいまだに箱館戦争の名残が目につきます。この辺りは掘ったら鉄砲の弾とか槍とかが出てきそうなくらい戦争の傷跡が生々しい気がします。
そして五稜郭を訪れます。タワーの1階には各人の銅像が並びます。まずは土方歳三です。
そして榎本武揚像です。この時期は旧幕府脱走軍という呼び方をした方が分かりやすいでしょうか。全国に数ある榎本の銅像の中では最もスマートな印象です。
私は知らなかったですが五陵郭を設計した蘭学者の武田斐三郎です。
この時代においてかなりの国際通でいち早く西洋様式の城郭を日本に持ち込んだことになります。
タワーに上がるか迷いましたが、季節によって景観が変わりますのでそれも楽しみの一つですので上がりました。
まだ紅葉には早かったようですが夜はライトアップされ一層きれいだということです。
こちらの土方さんには触ることができます。
五稜郭タワー1階のアトリウムには五稜郭を攻撃したであろう大砲が置かれていました。
函館山の古図ですね。
箱館奉行所を訪れます。蝦夷地の統治と港の警備の拠点となるわけですが、箱館戦争の舞台となりましたが当時の建物を緻密に再現した物ですね。
中にある榎本武揚の書が心を打ちますね。敗軍の将として東京に護送される心境を書いたもので、恐らくこの時点では死を覚悟していたことでしょう。
しかし黒田清隆は彼の才能を高く評価し、厳罰に処すべしという薩長大多数の意見を抑え新政府の要職に着けその後も活躍することになるわけです。
榎本先生もここで指揮を執ったと言うことでしょう。
函館湾の見張りをしたり太鼓で時を告げたりしていた太鼓櫓の様子です。
館の展示はとても分かりやすく、じっくりとみて回りたかったですが時間が無かったですので次に向かいます。
また来る機会もあると思います。
少し歩いてみましたが上から見るのとまた違いそのスケールの大きさに驚かされます。春は桜が美しいでしょうね。
そして星形の5つの頂点の間にある珍しい三角形の半月ほの先端です。少しソリ上がっているのが特徴ですね。
星形の先っぽから見下ろした写真です
タワーももちろん五角形のスター形です。
さて五稜郭を後に亀田八幡宮に訪れます。ここは11日に土方が戦死しその後17日に榎本武揚ら脱走軍の幹部が降伏し、この亀田八幡宮で降伏条件を話し合った地で旧社殿が今の残されています。無数の弾痕が戦いの痕跡として今もなお残っています。
境内には「箱館戦争降伏式の地」の碑が建ちます。激闘の後でしたがさぞ悔しく涙を流さんばかりの武揚だったでしょう。この時は死を覚悟していたことでしょう。
余談ですが昼ご飯は五稜郭近くの函太郎で寿司を食べました。函館に来るたびに函太郎で地元のネタを食べるのが楽しみにしています。ホタテの味が違いますね。
その②へ続きます。 (30)