歴史と地理好きな私は鹿児島は外せませんが行く機会が無くてなかなか訪問できませんでした。今回は「跳ぶが如く」の西郷隆盛の足跡を訪ねるプランを考えて鹿児島から奄美大島への旅をしました。(2013/07)

7月の真夏に鹿児島中央駅に到着しました。天気に恵まれて青い空が九州という感じがします。

駅前には早速幕末志士たちの碑があります。維新の町という印象が漂います。

まずは駅から歩いて甲突川沿いの鍛冶屋町の維新ふるさと館に向かいます。この地域で西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、黒田清隆など幕末から明治の有名人が誕生している驚異のパワースポット地域です。

館内の維新演劇シアターでは実物大?の人物がステージでドラマ劇を見せてくれますので分かりやすく歴史の勉強ができます。

甲突川からのこの眺めは昔から皆が眺めていた景色かもしれないです。

近くには大久保利通の銅像も建っているそうで探してみました。

西南戦争時に西郷に対して政府軍を派兵し竹馬の友である郷土の英雄を死なしめた男として地元の人気は低いようです。その大久保も東京紀尾井町で暗殺されることになります。 

次に歩いて加治屋町の西郷隆盛の出生地を見学しにいきます。

西郷隆盛・従道兄弟の出生地碑です。隆盛は1827年現在の鹿児島市加治屋町生まれ。兄の隆盛が政府の職を辞して鹿児島へ帰郷した際に弟従道は新政府に残ったため西南戦争では兄と弟が敵味方となった次第です。

西南戦争時には新政府側の陸軍少将であった大山巌の生誕の地も同じ地域にあります。同郷の者同士が敵と味方で戦ったのが西南戦争の悲惨な点でもあります。戦後処理を行いましたが悲しみで西郷の遺体と見ることが出来なかったそうです。

周遊バスで城山を目指します。

バスを降りると土産物の露店が並びます。

城山の展望台から桜島を臨みます。西郷も見た同じ景色と思います。

西郷隆盛が最後を過ごした西郷洞窟を訪れます。

政府軍に攻め込まれ城山に退いた西郷隆盛が最後の5日間を過ごした洞窟です。いよいよここで死を覚悟した隆盛の心情を考えると心が痛みます。

西郷は自分で起こした戦争ではなく士族のためにやった命という印象でした。

有名な城山の西郷銅像です。

市内の観光名所は周回バスに乗ると便利です。決まった時間に来てくれるので観光客にはありがたいです。

西郷隆盛没後100年を記念して建設された西郷南洲顕彰館と南州墓地を訪れます。

南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。 桐野利秋、別府晋介、村田新八、辺見十太郎など最後まで西郷と生死を共にする覚悟の面々たちも、実際に最後は西郷と共に殉死し共に眠ります。合掌。

中央の西郷隆盛の墓に手を合わせます。西郷隆盛は最後弾を受けて別府晋介に介錯されて首を落とされたと伝わります。首に関しては偽物説なのがありましたが最近の調査によってこの墓に胴と首が埋葬されたことが確認されたそうです。

そして西郷隆盛と西南戦争の戦没者を祀る南洲神社にお参りいたしました。本人の意思と言うよりも西郷を慕う士族らに担ぎ上げられて新政府に対抗せざるを得なかった無念の挙兵、無念の死であったと思います。

西南戦争の発端となった私学校の跡地です。政府軍の挑発により私学校の学生たちが陸軍の火薬庫を襲うなどの暴動に発展、生徒を怒った隆盛でしたがもはや我慢も限界になったのでしょう、天命に導かれるように挙兵へと進むことになります。

お堀にハスが広がる鶴丸城跡地です。

石垣には西南戦争時の弾痕が残ります。


鹿児島県歴史資料センター黎明館です。

敷地内には篤姫の像も。炎天下で暑いことでしょう。

西郷隆盛の終焉の地を目指します。西郷隆盛率いる薩軍は岩崎谷を駆け下り最後の抵抗を示しましたが腰と太ももに銃弾を受けて最後の覚悟を決めることになります。

私学校の裏手にある隆盛終焉の碑です、ここで西郷隆盛は別府晋介に介錯をたのみます。別府晋介は『御免なったもんし(お許しください)』」と叫び西郷を介錯した後に自決しました。西郷の首は隠されましたが後に新政府軍に発見されました。

最後の状況を伝える案内板が立っていました。

照国神社には隆盛の師、島津斉彬の像が立っていました。斉彬が病没した際は、西郷は墓前の前で切腹しようとして止められたという逸話もあるほど尊敬していた存在です。

その②へ続く