その②から続く
そして翌日は光秀が丹波平定を行って築いた城下町・福知山にやってきました。現在の人口は8万人弱ですが初めてやってきた福知山駅は新幹線の駅の様にとても立派で綺麗ですね。
駅を降りたところから光秀の名前が目に付きます。やはりNHK大河の影響で盛り上がっているようです。
早速ですが駅の観光案内に聞いて福知山城を目指します。歩いても約15分で行けますがちょうど周遊バスが出る時間だったのでバスに乗って向かうことにします。バスからはすぐに立派な福知山城が見えてきました。
かわいい周遊バスにて約10分で福知山城の前に降りました。
山城ではありませんが天守までは小高い丘をかなり登って行くことになりそうです。
城の堀を渡る橋がかなり急で特徴的です。
橋の上から見ると本丸東側の自然の川を利用した堀の様子がよく分かります。
1579年に丹波を平定した明智光秀がこの地に築城したお城です。昭和になって昔の絵図を元に復元された3層4階の天守ですが褐色の壁の下目板張りなど当時の面影を感じさせます。
天守台の石垣にズレが見えますが右側が光秀時代のもので左が江戸時代のものだそうです。
大天守と小天守を結ぶ続櫓がありますが石落しを備えた戦略的な防御も備えています。
天守を下から見上げますが下の2層が同じ幅あることが分かります。
石垣の中にある五輪塔や石塔婆や石仏などを探してみると面白いです。こんなにも不揃いなのは珍しいですね。
転用石と呼ばれるそうですが多くが転用されたのには石不足のためとか魔除けとか神仏の否定とか諸説あるそうです。
大天守、続櫓、小天守が連結した構造になっています。
3層4階の大天守です。
2層2階の小天守です。
城の構造をはじめ石垣にも魅力がいっぱいのお城ですね。
現在の天守内は資料館の意味合いも持っているようで様々な展示が行われていました。
広間では当時の情景を人形で再現しています。ただ光秀の治世は約3年間でその後は秀満に任せたようです。
昭和に復元された天守ですので内部は新しく階段等は手摺も付いて現代的です。
最上階の様子です。
天守からは福知山の街が一望できます。この方向には由良川と音無瀬川と音無瀬橋が見えています。光秀が由良川の流路を変え竹を植えた通称明智藪のあたりもこの辺ですね。やはりこれだけ心血を注いで開いた福知山や丹波を信長に取り上げられたのがやはり本能寺の変につながったのはと思えてしまいます。
福知山駅に向かって特急電車が到着していくのが見えました。中心部も一望できる距離です。
この豊磐井と呼ばれる大井戸は深さが50メートルもあるそうで43メートルの海抜から7メートルも岩盤を堀り進んでいるのでだそうです。
朝暉神社には藩祖の朽木稙綱が祀られています。
福知山城のキャラクターは「光秀くんとひろこさん(熙子さん)」です。忍太郎のしんベエに似てますね。(笑)
次に由良川に通じる広小路に面した場所にある御霊神社を訪れます。光秀の善政に感謝した町民が光秀の霊を祀り併せて火災・水難除けの信仰を集めた神社と言われています。
本能寺の変により謀反人の象徴として悪人のイメージがある光秀ですが地元では領民にいかに慕われているかを物語る神社と言えます。
元々御霊神社は稲荷神社でしたが福知山で天災や水難が相次いだため冤罪で非業の死を遂げた光秀の霊魂が祟っているとのうわさが流れ光秀が合祀されることになったとのことです。
そして福知山に来たからには京都丹後鉄道を見てみたいと楽しみにしていました。
ホームには宮福線の広告が出ていましたが確かに丹波・丹後は見どころがいっぱいです。細川家との関連深い宮津城跡にも行ってみたかったです。
京都丹後鉄道には列車3兄弟というのがいますがホームにはその中の豪華ダイニング列車のくろまつ号が停っていました。こちらは九州ではお馴染みの工業デザイナー・水戸岡鋭治さんデザインの豪華列車です。
こちらはあおまつ号かと思いましたが普通列車でした。この日は一般車両に変更して運行するということがHPに出ていました。残念でした。
そしてこちらは天橋立と西舞鶴を結ぶあかまつ号です。天橋立の松をイメージした観光列車です。次に来るときは3兄弟に乗って景観を楽しみながら田辺城や宮津城まで足を伸ばしたいと思います。
福知山駅では特急きのさき(京都~城崎温泉)や特急こうのとり(新大阪~城崎温泉)、特急はしだて(京都~天橋立)などの287系車両を多く目にすることができます。
この時も向こうのホームにも287系が停車していました。
こちらは289系特急こうのとり号です。
初めて訪れた福知山でしたが城だけでなく街全体に光秀の思いというか息吹を感じられる街でした。福知山城もとても落ち着いた外観で街のシンボルとして光秀と共に市の誇りとされているよに感じました。(35)