1853年ペリーが浦賀に来航し翌年には下田が開港されることになりました。日本の歴史上大きな意味を持つこの下田にはその史跡が多く残ります。また黒船により攘夷だ開国だと議論が沸騰する中で、吉田松陰はじっとしていられずにこの下田でも多くの足跡を残していますので追いかけてみます。

熱海から伊豆急下田駅へやって来ました。途中、車窓からはきれいな海が広がり眩しい程でした。改札がいきなり関所という想定で下田の雰囲気を醸しだしています。

駅前にもいきなりサスケハナ号がお迎えです。

駅からすぐに寝姿山へのロープウェイが出ています。下田全体が見渡せる景色の良さと当時の外国船見張所跡があるとのことで見に行きたい気持ちはありましたが、今回は時間がなさそうなので最後に回してもしも余裕があれば登ることにします。

すぐ近くの頭上をロープウェイが走るので迫力はありました。

山頂に向かってロープウェイは上がっていくのを眺めます。

さて駅から西に歩いて弁天島方面を目指します。湾内の地図でだいたいの位置を確認します。

10分ほど歩くと港内クルーズのサスケハナ号が見えてきました。

1853年来航した4隻のうちペリーが乗っていた旗艦船がサスケハナ号ですが、それを模して非常に人気の遊覧船ですので乗ってみることにします。

船からは下田の町並みや寝姿山が良く見えます。

当時もペリーからは下田の美しい山々が良く見えたことでしょう。この後たくさんのかもめに追いかけられます。

弁天島が見えてきました。右の方に祠が見えてきます。松陰と金子が密航をしようと身を隠し小舟を漕ぎ出した弁天島を海上から見ることができます。

なかなか風光明媚な景観が楽しめます。

ここまどが浜海遊公園は道が整備され、道の駅「開国下田みなと」があるなど多くの観光客が歩いています。目の前に海が広がり景観が素晴らしいです。
下田は海や景観が素晴らしいし温泉もあって大きなホテルがたくさんあるのが良く理解できました。日帰り温泉もあって自慢の露天風呂から海を見ながらのんびり楽しむことができます。

このまどが浜海遊公園に坂本龍馬の像が建っていました。あまりピンときませんでしたが坂本龍馬はここ下田の宝福寺で勝海舟が山内容堂と面会し脱藩を免除されたということで、下田が龍馬飛翔の地とされているのです。

弁天島にやってきましたが、入口には吉田松陰が楠木正成・正季兄弟が自刃する際に語ったという言葉に感激して記した「七生説の碑」と金子重助の顕彰碑が並びます。

弁天島の祠ですが、吉田松陰と金子重輔はこの祠に身を隠して1854年4月24日の夜2時頃にここから小船ろ密航を試みたということですが現在は弁天島は陸続きになっています。

2度目の来航時はペリー艦隊九隻が湾内に停泊していたそうで、ちょうどこのサスケハナ号の様な感じであったと思われます。黒船と言われますがこれは防水のためにコールタールを塗ったためということのようです。
弁天島の洞窟から海を眺めます。松陰と金子も真夜中に真っ暗闇の中でじっと密航のため海を眺めていたのだと思われます。

弁天島の横にある公園に建てられている有名な吉田松陰と金子重輔の像、「踏海の朝」。指さしているのは黒船か、アメリカか、未来でしょうか。

弁天島から近くの三島神社には吉田松陰の像が建っていました。この像は東京、大阪、山口の有志の方々によって昭和17年に建てられたものだそうです。

吉田松陰について、波乱の短い人生でした。

日米和親条約により下田の港は開かれますが、ここ玉泉寺はハリスを初代総領事とするアメリカ総領事館が置かれました。条約でアメリカ人が日本で死亡した場合にはここ玉泉寺に葬ることが決められていましたため、日本最初の外人墓地が作られました。

ここら辺は解説版の方が分かりやすいと思いますので掲載しておきます。

弁天島から少し歩くと初代米国総領事ハリスが散歩したという「ハリスの小径」がありますが、そしてその先に2人が乗船を断られ送り返された福浦海岸に上陸の碑が建っています。
 
その②へ続きます。 (25)