休みが取れましたので大分県は県南に位置します佐伯を訪れました。佐伯は人口7万人の小さな市ですが昔から魚が美味くて有名です。昔から「佐伯の殿様 浦で持つ」と言われたほど江戸時代も漁業が財政を支えてきたようです。今回も魚のランチも楽しみに江戸時代に造られた佐伯城跡を初めて訪れたいと思います。(2018/02)

日豊線はJR佐伯駅に降り立ちました。大分からは普通電車で1時間30分くらいです。

駅から歩いて行ける距離内に歴史的な史跡や名所が集まっていますので時間の許す限り散策します。

駅からは観光案内所に聞いて城山へ歩いて行くことにしました。(約20分) 整備された川に沿って歩いて行きます。向こうに見えているのが佐伯城のある八幡山(城山)です。

小川のあぜにカモが群れていまして何とものどかです。

この通りは歴史の道と呼ばれていますが国木田独歩が1年生活した下宿跡が独歩館になっています。国木田独歩の滞在は短かったですが城山がお気に入りの様で何度も登ったようです。

初代佐伯藩の毛利高政公が鶴屋城の築城と同時期に菩提寺として創建した養賢寺です。高政公の廟や歴代藩主の墓所があるということです。関ヶ原の戦いで高政公は秀吉の側近であったため当初は西軍に付いたらしいですが、藤堂高虎の取り成しで家康の許しをもらい日田日隈からこの佐伯の栂牟礼城(とがむれじょう)に2万石で移封されてきました。

佐伯の歴史を見守ってきたお寺ですね。修行の寺ということで拝観はできませんでした。

城山への登り口に到着しました。石垣も見えてきました。右に進むと登山口で向います。当初の栂牟礼城はあまりに不便であったために新たにこの標高140メートルの八幡山に築城始めたということです。佐伯城は続100名城に登録されています。

城の全容がよく分かる図と思います。山の尾根をうまく利用した山城です。本丸を中心に鶴が羽を広げたように見えることから鶴ケ城と呼ばれていたそうです。

佐伯城の歴史についてまとめられています。

城には登山方法が三ルートあるようです。行きと帰りと別の道を選びたいと思います。どのコースでも約20分ほどで山頂に行けると思います。

私はパッと見て登りやすそうな独歩碑の道を選択しました。行きはこちらの道を登ります。

この道は舗装はされていませんが車も通れるような広さです。幼稚園の園児たちも元気に登っています。

城が近づくとやや道は狭くなってきて坂もきつくなってきます。

頂上が近づいてやっと石垣が見えてきました。

本丸への階段が続きます。

本丸にある天守台の石垣です。三層の天守が存在していたそうです。1602年より4年がかりで築城しましたが1617年の火災で本丸や天守が焼け落ちてその後天守はは再建されていません。

山城ですのでその景観は素晴らしいです。佐伯の町と豊後水道はもちろん天気がよければ四国の山々まで見渡せます。

佐伯駅に近づく特急列車も見えました。

本丸から左側の翼ですが二の丸、西ノ丸と続く石垣です。

二の丸からの眺めも素晴らしいです。美しい番匠川の流れが一望できます。

西ノ丸の先には二重櫓があったようで礎石跡が見えています。眺めが良かったでしょうね。

二の丸から本丸・天守台を望みますと石垣と石垣の間に橋を渡した珍しい構造がありました。

なかなか石垣はきれいに残っていると思います。岡城とか竹田城などの山城に石垣の雰囲気が似ていますね。

本丸から右側の翼ですが北の丸と続きますがここにも櫓があったようです。

北の丸の端にも二重櫓があったようで城の端を守ります。

さて城を降りることにしますが帰りは行きとは別のルートを通ります。登城の道を降りることにしますが坂が急で濡れてて滑りそうになります。

この道は狭くて岩がゴロゴロと露出していて滑るので歩き難いです。しっかり踏んばらないとこけそうになります。

唯一現存する三の丸櫓です。後方に見えるのは佐伯市文化会館です。

毛利家第三代当主高尚が櫓門を創建し山頂の鶴ケ城から三の丸に住まいを移して藩政の中心としました。非常に歴史を感じさせる櫓です。

やはり山頂を居館とするのは不便であったようで時代と共に山麓に藩政の場を降りてくる傾向があるようです。

八代藩主の毛利高標が創立した藩校の四教堂の跡です。8万冊の蔵書を集めた佐伯文庫でも知られます。

さて散策も終わりランチは迷いますがやはり佐伯に来たからにはデカ寿司を食べたいと思い駅からすぐの錦寿司を訪れます。実はこのお店に来るのは25年振りで昔仕事で佐伯に来た時に連れて行ってもらったお店です。本当に久々に来ました。

出た!普通のにぎり鮨の2倍くらいありますね。ネタが大きいので肉厚でなかなか噛み切れないくらいです。久々に堪能いたしました。店内にはギャル曾根の写真とかもありました。佐伯には他にもごまだしうどんなどのグルメがありますね。次の機会にします。

短い時間でしたが佐伯の歴史に少しだけ触れてみました。九州にいながら藩主の毛利高政の名字に違和感がありましたが、秀吉家来の森高政が中国大返しの際に毛利への人質に出されており、その後毛利輝元に気に入られ毛利姓を賜って名乗るようになったということです。大分は小藩分立の歴史がありますのでそれぞれの藩の歴史を少しづつ勉強することがなかなか面白いですね。 (35)