寒い一日ですが豊後竹田にやってきました。JRの豊肥線は熊本方面は地震や豪雨の影響で寸断されたいましたが大分~竹田間は通常通りに運行されています。竹田と言えば岡城ですが今回は江戸時代の岡藩の史跡を散策するためにやってきました。竹田岡藩(7万石)は中川秀成公が関ヶ原の戦いで所領を安堵されてから明治時代までまで存続したために今も岡城を中心に江戸時代の城下町の風情が残ります。(201901)
豊肥線大分からの列車はよく目立つ真っ赤なお洒落な車両です。
豊後竹田駅は歴史を感じさせる武家屋敷風の駅舎です。
駅のすぐ裏には大きな岸壁が迫ります。よく見ると上から滝が落ちています。これは落門の滝と呼ばれていますがこれも歴史があって第3代藩主中川久清公が陽明学者の熊沢蕃山を招いて築いた城原井路の末流が流下しているものであるということです。
駅のホームにも案内板が置かれていました。
この駅は猫駅長が有名なんですがこの日は事務室のストーブの横でお昼寝中でした。
駅前の橋には竹田の偉人、田能村竹田の像と南画が飾られています。竹田も藩校の由学館で学んでいますしやはり教育のしっかりした藩から偉人は生まれるという気がします。
なんでも鑑定団にも田能村竹田はよく出ますが人気があるので偽物が多いですね。
駅前の大正公園から駅を見下ろしますと駅裏に迫る崖の景観は圧巻ですね。こんな風景はなかなか見れないです。駅には丁度ななつ星が停まっていました。
竹田市は水の都でもあって本当に川の流れが美しいですね。
竹田市街を散策しますと城下町の街並みに江戸時代の史跡が残り見つけて回るのも面白いです。こちらは当時の御客屋敷、今のホテルですね。
伊能忠敬一行も宿泊したとのこと、庭園もあって贅沢な宿泊所です。
江戸時代の雰囲気を残す八幡川横丁などを歩きます。
竹田のお土産と言えば荒城の月と三笠野ですね。歩き疲れたらこの但馬屋さんでコーヒーとお菓子で一服できます。
街並みに溶け込んだ蔵造りは郵便局です。
街中から岡城へは山の切通し・トンネルを通るのも竹田らしいです。
稲葉川に沿って寺院や史跡が並びます。江戸時代は自然を楽しむ藩主の御茶屋として楽しまれた場所の様です。
稲葉川沿いの途中に英雄禅寺がありますが、ここは二代藩主久盛が佐久間盛政を供養するために建立した寺です。佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いで敗れ処刑されたわけですが、その娘・虎は仇である初代岡藩主の秀成に嫁いでいます。虎姫は伏見で過ごしていますが久盛が虎姫の父の供養をこの竹田でも行っていたということでしょう。
稲葉川沿いに多くの史跡があることが分かります。
さらに進むと岡藩おだまや公園ですが岡藩・中川家の廟所の碧雲寺があります。
元々は秀成が作った御茶屋として利用した場所とのことですがその後菩提寺となったようで代々の藩主が眠ります。
真っ先に目に入るのは初代藩主で秀成の墓です。
その後の代々藩主の墓が並びます。
稲葉川に沿って歩き歩道をさらに進むと案内板らしきものが見えてきました。ここからお殿様がさらに風流を楽しんだ場所を目指します。
ここは五代藩主の久通公が御茶屋を作り常に月見を楽しみたいためか岩盤に三日月を掘って風流を楽しんだ場所です。確かに川のせせらぎの音や鳥のさえずりが聞こえ月を眺めて存分に自然の景観を楽しめる場所です。
ありました。久通公の造った三日月です。平和の時代を謳歌するお殿様の珍しい姿を垣間見れました。
殿町武家屋敷跡の通りは古い屋敷が並び歴史の道と呼ばれています。
ここもかつて一度訪れたことがありますが隠れキリシタンの洞窟礼拝堂の場所です。
非常に珍しい洞窟に彫られた礼拝堂跡です。豊後は大友宗麟公などキリシタン大名が存在していたのでキリシタンには寛容だったかと思われますが江戸時代になってからは禁教とされ厳しい規制が布かれてきました。ここ竹田にも多くのキリシタンが潜伏して生きながらえてきたことでしょう。
非常に神聖な場所です。
また歴史の道を進むと田能村竹田の住居跡がありました。
隠居後は南画に没頭して素晴らしい作品を多数生み出したようです。
ここ竹田の偉人と言えば滝廉太郎の名前も上がります。トンネルにも名前が付いています。
滝廉太郎の父は日出藩の役人ですが彼は東京生まれで父の転勤に伴って12歳から14歳までここ竹田で過ごしました。その屋敷を見学できます。
その際に岡城でも遊んだと言われそれが荒城の月のメロディーの基になったと言われます。彼の銅像が日出や富山、大分市にもありますね。荒城の月の曲想はどこの城なのかという論争も面白かったです。私は個人的には荒城は岡城と思います。明治の頃にはかなり岡城も廃れてまさにあの暗くて寂しいイメージがピッタリだったと思うのです。今は見直されて岡城も観光客が訪れ城ランキングも上位になってきています。
駅に近い公園内にある国の重要文化財の愛染堂です。日光東照宮の建築に携わった二代藩主久盛が連れ帰った飛騨の匠に造らせた宝形造の寺で竹田市ではもっとも古い建造物です。
内部を見れなかったのは残念ですが歴史を感じます。
愛染堂の四方の軒下を飾る天邪鬼の彫刻は左甚五郎の作を持ち帰ったものではないかと伝わります。
江戸時代の以前の戦国時代には大友と島津の戦いがあってこの竹田・岡城も激しい戦場となっていましたが大友側には志賀親次という猛将がいて岡城を守り通したことで知られています。島津軍を何度も撃退したことで秀吉も大いに喜びキリシタンの親次(ドン・パウロ)に感状を送ったと伝わります。また島津義弘からも楠木正成の再来と称えられたということです。
元々岡城は豊後武士団の棟梁の緒方惟栄が源義経を迎えるために造られたと言われるなど歴史を遡るほど興味が溢れます。
今回の旅につきましては「豊後岡城物語」(吉田健二著)という漫画本が参考になりました。竹田の歴史を分かりやすく面白く漫画で紹介していて実際に訪れたくなります。(35)