その②より続く

勝海舟は晩年、洗足池の風光を気に入り別邸を構えて居住していたそうです。1900年に77歳で逝去し、遺言により洗足池の丘に葬られました。確かに夏でも涼しい風が吹いて心地よい場所です。

洗足池の案内板です。


本当によくこの時代に暗殺されることなく長生きできました勝海舟ですが、ご夫婦仲良く洗足池の河畔で眠られています。頭もよく運も強かったのでしょう。

勝海舟夫妻の墓の案内です。何度も殺されかかった海舟も妻の心配は半端なかったでしょう。


西南戦争で戦死した西郷隆盛の死をいたみ、 勝海舟が私費で建てた留魂碑です。かつては幕府軍と新政府軍として敵味方であった二人でしたが、お互いにリスペクトされていたのでしょうね。

明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城明け渡し交渉によって江戸の町を戦火より救い、首都東京の基を築かれたことでも著名です。勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(1877)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六(1883)年、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感(ごくちゅうかんあり)」の「願留魂魄護皇城(ねがわくはこんぱくをとどめてこうじょうをまもらん)に由来するものです。 
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木1-5-9)の薬妙寺境内にありましたが、留魂祠、大正二(1913)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っています。

次に池上線を移動しまして池上の本門寺の庭園に向かいます。ここの松濤園というお庭には西郷隆盛と勝海舟の会談の碑が残ります。まずは本門寺の本堂に参拝するためには石段を登りますがこの坂は加藤清正の寄進によるものということで、400年以上も前のものということになります。

加藤清正寄進の石段です。


本門寺の太堂にお詣りします。空襲で焼けて再建したもので古さは無いのですがこの屋根の形は遠くから見た方が美しさが分かりますね。

そして年に1週間しか一般公開しない松濤園の庭園を訪れます。(無料)ここは桂離宮の造園で有名な小堀遠州の作と言われています。 来園者は池を回ってどこからでも景観を楽しむことができますし、茶室で一服することもできます。素晴らしいですね。


そして1868年、この池のほとりのあずまやで西郷隆盛と勝海舟が一回目の会談をしたと伝わります。

二人の会談は田町の薩摩屋敷が有名ですが、その下交渉をここでフランクに行ったのかもしれないですね。その碑が立ちますがこの字は隆盛の甥の従徳のものだそうです。

勝海舟は殺されるかもという死ぬ気で臨んだ会談と言われます。

松濤園のこの建物からの眺めは有名ですね。一般公開は年に何回かしか行われていません。

同じく池上本門寺にはあの力道山のお墓が有名ですね。私も初めて行きましたが看板が出ていますので迷うことなくすぐに分かりました。

そうです、こちらがJR田町駅から歩いて5分、勝海舟と西郷隆盛の会談場所となった薩摩藩江戸藩邸跡です。 勝海舟という人はなかなかの交渉上手であったのでしょうね。

この近くの現在NEC本社ビルの北向きの植え込みの中に薩摩藩上屋敷跡の碑があります。鳥羽伏見の戦いのきっつかけになった薩摩屋敷の焼き討ち事件はこの上屋敷だったのですね。

築地にある軍艦操練所跡です。一時期勝海舟が教授方頭取となってこの操練所でも働いていたようです。

また江戸ではありませんが長崎に行った際に勝海舟の史跡に出会いましたのでここに上げておきます。

勝海舟が1855年より4年間航海術を学ぶため長崎海軍伝習所に通っていたときに生活していた本蓮寺です。

勝海舟は本妻がいたのですが長崎にて一男一女を儲けています。現在のドラマでも自由奔放なイメージに描かれることが多いですね。


その勝海舟の愛弟子の坂本龍馬編ですが、江戸に剣術の修行に来てすぐにペリーが来航しますが、土佐藩の江戸下屋敷で砲台の警護にあたるために立会川に派遣された龍馬にとって衝撃の体験になったことでしょう。京急の立会川を降りるといきなり龍馬の垂れ幕が迎えてくれます。

立会川駅からすぐの公園に龍馬像が立ちます。高知市から龍馬の人生を変えた思い出の土地への寄贈とのことです。

そして立会川駅から歩いて10分、東海道沿い、今の第一京浜沿いの浜川中学校に土佐藩下屋敷跡の碑が立ちます。ここから海は目と鼻の先で黒船がすぐそこに見えたことでしょう。

また番外編になりますが、西郷隆盛が唯一尊敬する島津斉彬の病気治癒を昼夜祈り続けたと言われる目黒不動尊です。江戸から薩摩へ祈りを届けたい一心であったということです。

そして1862年、江戸から薩摩に戻る島津久光御一行が生麦を通過する際に、馬で行列を妨害したとイギリス人を殺傷する事件が起こった生麦の現場です。現在は第一京浜の工事中のため下の脇道に一時移動しています。

現在は以下のような石碑が立っています。ここから薩英戦争、倒幕と幕末の一連の流れにつながっていくのです。

本当にペリーが来てから新しい日本が生まれるのは産みの苦しみの連続だったと思いますし、多くの志士が命を落とし多くの犠牲の上で今の繁栄があるなとつくづく思います。

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