大分では国民文化祭がそろそろ終わりを迎えています。私個人としては様々なイベントに参加させていただき楽しく過ごすことができました。今週末も最後のイベントに参加するために電車で移動します。
本日は臼杵市の旅です。臼杵駅を降りると国宝の磨崖仏が出迎えてくれます。
本日は国民文化祭の一環としてここ臼杵市民会館で奈良大学の千田先生の講演会が開催されますので聴衆としてやってきました。先生は城郭の専門家ですので臼杵城についての石垣もいろいろと写真で解説していただきました。
臼杵市民会館のロビーにはリーフデ号の模型が置かれています。時間があれば黒島に渡って1600年のリーフデ号の漂着した場所を確認しに行きたかったのですが、冬の間は船が難しいようです。
さすが臼杵ですね、市民会館の大ホールの緞帳の絵柄も大友宗麟です。
せっかく臼杵に来たので講演会の後は臼杵城を散策して帰りたいと思います。
臼杵城址は現在は臼杵公園となっており野球場やゲートボールなどで使われています。臼杵城は大友宗麟が築城しましたが江戸時代になってから明治維新まで稲葉氏が治めておりました。戦国時代には丹生島と呼ばれ臼杵湾に浮かぶ島で干潮時だけ陸続きとなっていたそうです。
古図と照らしあわせて見て回るのがお勧めですね。ほぼ縄張りがそのまま残っているのではと思います。
鎧坂と呼ばれるこの急なカーブは姫路城にも似た坂があったと思います。
現存する畳櫓です。
復元された二の丸大門櫓を通って二の丸に入ります。
帯曲輪の跡が残ります。城を守るために周囲にはいくつもの櫓があったようです。
大友宗麟のレリーフです。市民会館の緞帳に使われた絵柄ですね。
宗麟が島津軍にぶっ放したと言われるフランキー砲、国崩しと呼ばれる大砲です。大砲は宗麟が日本で初めてポルトガルの宣教師より入手し最初に使用したとされています。
二の丸北側にも櫓があったことが石垣から窺えます。
二の丸から本丸に通じる鉄門の跡です。
二の丸から本丸への間には巨大な空堀が見てとれます。
鏡石とみられる巨石が使われています。
かつてはこの場所に3層4重の天守があったと言われています。
大友宗麟死後の時代に造られたと言われています。
天守台の石垣は野面で荒い積み方でになっていますので強度は弱そうです。
天守台についての案内です。
大友宗麟の時代から存在する卯寅稲荷神社がありました。
このあたりは卯寅口ですが当時は海に通じていました。本丸が攻められた時は海上に逃げることも想定していたのでしょう。卯寅口門脇櫓は海上からの敵に目を光らせていたのでしょう。
海に近いのに真水が湧いたと言われる井戸跡がありました。
卯寅口と卯寅口門脇櫓についての解説です。
城の西側にありますが安土桃山時代から続く八町大路と呼ばれるく歴史ある商店街です。
散策したくなる風情のある通りです。
このあたりは武家屋敷や寺院が建ち並ぶ二王座歴史の道です。
鎌倉の切通しは有名ですが臼杵城下にも切通しが存在します。このあたりは甚吉坂と呼ばれています。
案内板が分かりやすいですね。
臼杵市内の案内図です。城から西に武家屋敷などの城下町が広がります。コンパクトですので駅から歩いて見て回れます。
駅のホームにも臼杵の磨崖仏が置かれています。
本当に歴史ある街ですね。
臼杵にて歴史の勉強をたっぷりとさせていただきました。臼杵城は宗麟公の頃は海に浮かぶ海城であったのでしょう。街にはキリスト教の教会や洋風の建物が建ち並び南蛮の街そのもので繁栄していたことでしょう。次に来るときには黒島に行きたいです。
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