あまり全国的には知られていないと思いますが大分には徳川家康の孫に当たる松平忠直卿の史跡が存在します。忠直卿は家康の孫に当たり大坂夏の陣の合戦で真田幸村を打ち取るなど豪胆な武将で知られていました。ところがその後父の結城秀康を継いで福井藩主になってからは大変な悪評判の問題児となってしまい処分に困った将軍秀忠は忠直を豊後の僻地に流してしまったわけです。合戦の褒美に不満があったとか何が忠直卿をそうさせたかは誰にも分かりませんが豊後に流されてきて豊後の住民も戦々恐々だったことでしょう。

ここは大分市内王子町の浄土寺ですが松平忠直卿のお墓が存在します。乱暴を働いて豊後に流された忠直卿はここ豊後の地で56歳で亡くなるまで過ごしました。賄料として5,000石が与えられていたと言われます。遺体はここ府内浄土寺で火葬され最愛の妾のお蘭様と愛娘のおくせと共に浄土寺のお墓に共に眠ります。忠直の遺骨は浄土寺、津守、高野山金剛峰寺に分葬されました。

大分市内の萩原、津守と居を構えますが、意外にも豊後の水が合ったのか戦争の後遺症も癒え忠直卿はたいへん温厚な人物になり住民に慕われるようになり今なお「一伯公」「一伯さん」と号で呼ばれて親しまれ光明生活を送られていたようです。

56歳で生涯を閉じますがこの浄土寺の中に三ツ葉葵の家紋が付いた立派なお墓(一伯廟)にて眠ります。 関ヶ原の合戦後、父の結城秀康は越前北ノ庄城主となり68万石を領有し結城から松平に復姓します。忠直は慶長12年(1609)父の死をうけ家督を相続し同16年3月叔父の2代将軍秀忠に拝謁し元服。一字をもらい松平忠直を名乗るわけです。順風な様で悩みやストレスが彼を苦しめていたのでしょうか。

忠直卿が流された津守には住居史跡が残っています。当時の府内藩主竹中重義(しげよし) は萩原村に50間(90m)四方の屋敷を新築し、忠直が越前から伴った幼女と お蘭他数名の侍妾を住まわせました。当時は館の四方は堀で囲まれ内側に土塀がめぐり東西南北にそれぞれ門があり、西口の堀の外に警護役人の詰所が置かれていたそうで、一応は厳しい監視下の蟄居生活でした。

家康を祖父に持ち関ヶ原の激戦で活躍したものの恩賞が少ないことを不満とし酒色にふけり江戸への参勤も怠り家臣を理由もなく切り捨てるなどの不行跡をあげ、とうとう豊後に流されてしまいましたがこの地で癒されて落ち着きを取り戻したのでしょうかね。

津守の住民に慕われた忠直卿の名は今でも銘菓として残っています。昔からお菓子に何で三ツ葉葵があるのか疑問だったのが今分かってすっきりしました。 ちなみに大分の銘菓にはザビエルもあればドン・フランシスコ(宗麟のキリスト名)もあります。さすが南蛮貿易の地です!。

また大分市中心部からは少し離れますが忠直卿が寄進された山門の残る寺があります。霊山寺と言いますが我々は子供のころに霊山自然の家の研修施設で夏休みとかにキャンプや野外活動を行った覚えがあります。

忠直卿はその霊山寺に山門や本堂、仁王門、鐘楼を寄進したと伝わります。現存するのは山門のみです。

どの角度から見ても歴史がありそうな古い山門です。

山門の側面には木に彫られて染色された物語の壁絵が残り天井にも確かに天女微笑んでいるのが分かります。何といっても長い間雨風に晒されていますので顔料は落ち痛みが激しい状況です。住職も何とか後世に残すために補修を行いたいとの希望を述べられていました。

壁絵が素晴らしいですが壁も柱も相当傷んできています。

昔話に出てくるような物語が壁に描かれており全く見事です。色を付けて補修できれば生き返ると思います。後世に残したいですね。

わずかに色が残っています。

板を掘っていますので絵が立体的に見える工夫がされています。

本当は絵にいろいろなストーリがあるのでしょうね。

どれを見ても貴重な壁絵と思います。

地元の新聞にも紹介されていました。

そして忠直卿の住居跡の近くにはなんと連れて来た真田幸村の馬のお墓が残っています。

忠直卿は大阪の陣で真田幸村を打ち取るという大きな手柄を上げたわけですが、幸村の栗毛の名馬を福井にも連れて帰ったようで、さらにこの豊後にも連れてきてそのお墓が残っています。幸村の残した宝ものが大分にも存在したわけです。

真田丸が放送中ですがこんなうんちくは誰も知らないと思います。


 

歴史を追いかけていくと思わぬ発見や知らなかった知識が発見できて驚きと共にうれしくなります。今回の忠直卿の足跡を追いかけて幸村の馬の墓を見つけたことや、豊後の人々のやさしさに触れて忠直卿が癒されたのかと勝手な推測に浸ることもできました。 (20)