昨日は大阪での幸村の足跡を追いましたが今日は和歌山九度山に南海電車でやってきました。駅舎も真田一色になっていますね。

真田の史跡はだいたい歩いて回れる範囲です。まずは小道に真田井戸を発見しました。真田の抜け穴とも呼ばれる不思議な洞窟ですね。

中は全く分かりません。この穴は大坂城に続いていて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いたという伝説が残っていますが、後世の言い伝えなのでしょうね。

さらに道を進んでいくと真田の幟の立った民家のような建物が見えてきます。

これが九度山で最も有名な真田庵(善名称院)です。真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺です。

これは雷封じの井戸と呼ばれるものです。

命は救われたものの高野山に蟄居を命じられた真田昌幸は再起を願ったままこの九度山町にて亡くなりました。幸村が父の供養のために建てた宝篋印塔と言われます。

規模は小さいですが真田宝物資料館もあり残されていた真田家の槍先や鎧などの武具や書状などが展示されています。

昌幸・信繁親子の辛くて厳しい生活を偲んでしっかりとお詣りさせていただきました。

間違いそうになりますがこちらはお蕎麦屋さんです。

柿の郷くどやまですが真田グッズなどのお土産はここで買えました。

赤揃えの甲冑が幸村の熱い闘志を表します。

大河ドラマ展の間は真田仕様の周回バスが回ってくれています。

再び九度山駅に戻ってきました。小さい町ですが真田親子の隠居生活の寂しさと執念を垣間見たような気がします。

なんとなく列車まで真田仕様になっている感じがします。

次に合戦の舞台となった場所を見に行きます。道明寺駅に降り立ちますとすぐ前に道明寺合戦記念碑が立っています。この辺りは藤井寺市ですがここでも夏の陣の激闘が行われ地です。大坂夏の陣・道明寺合戦は、慶長20年(1615)5月6日午前4時に小松山の戦いに始まって午後4時誉田の戦いが終わるまでの12時間の戦いです。西軍の連絡ミスなのか真田軍の到来を待てず後藤又兵衛はここで散りました。

駅から10分くらいですかこちらが道明寺です。

菅原道真公の縁起が書かれています。

ちょうどこの日はお釈迦様の花まつりで私も飛び入りでしたがお釈迦様に甘茶をかけて差し上げました。

こちらは菅原道真ゆかりの深い神社として知られる道明寺天満宮です。

街道を歩きながら進むと様々標識もあり楽しいです。

このあたりは古墳が点在しており廻りを散策することでその大きさや規模を確認することができます。

案内板が分かりやすいです。この応神天皇古墳以外にもいくつかの古墳が存在します。このあたりは太古から格式の高い場所であったのではないかと推測できます。

現在古墳の廻りは高い木が生い茂り森のようになっており歴史を感じさせます。

こちらは羽曳野市役所ですがダルビッシュの故郷になりますね。

劣勢になった西軍は道明寺から誉田八幡宮のあたりまで移動してきます。幸村が伊達軍との戦いで有名な「百万を称しているが一人の男子もおらぬのか」と声をあげたと伝わります。この時まではまだ幸村も闘志にあふれていたようです。

日本最古とも呼ばれる誉田八幡宮です。応神天皇を祀る神社で巨大な前方後円墳の南側に位置する神社です。

境内にも誉田古戦場の碑がありました。

誉田八幡宮と応神天応廟の間にかかる放生橋です。1年に1回だけ9月15日の誉田八幡宮例祭の夜に神様をお乗せした神輿が人々に担がれてこの橋をお渡りになりそこで祝詞奏上や神楽奉納などの神事が行われるそうです。神話の世界ですね。

きれいに掃き清められて参道にゴミ一つ落ちていない美しい神社でした。

1433年の創建と縁起には書かれています。

 

さてこのまま関西空港から帰京することにしますが、りんくうタウンに風呂があるのがいいですね。飛行機に乗る前にさっぱりできます。

りんくうタウンに夕焼けが迫っています。

関西らしいですね、南海ラピート号に会いました。

 

2日間かけて真田親子の大阪城、九度山とその史跡を回ることができました。確かに今でも昌幸・幸村親子の魂が残っているように感じられますますその存在が好きになりました。幸村は劇画とか小説の世界でも皆をワクワクさせるオーラを持っている存在と感じます。

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