大分は私が生まれ育った町です。近くにはお城跡があって子供のころは石垣に登ったりして遊んだものです。この大分府内城は公園になって昔は大分文化会館などもあって若かりし頃の南こうせつや伊勢正三なども歌ったと思います。このたびこの城も100名城になったということで大人になってじっくりと歩いて回ってみました。
大分府内城は福原直高が豊臣秀吉の命により城を築くため府内を見て廻り、「荷落(におろし)」と呼ばれていた河畔を築城地に定め城造りにかかったのが始まりです。
そして慶長四年(1599)に本丸に続き二の丸と三の丸が完成しましたが直高は「荷落」の地名を嫌い「荷揚(にあげ)城」と名づけました。この時から荷揚町の地名が誕生したようで昔からプロレス興行などがあった荷揚町体育館もまさにこの地にあった訳です。
100名城に敬意を示し城を探索していきます。分類上は梯郭式平城になるそうです。
昭和40年に復元された大手門です。
府内城の案内も掲示されています。今までほとんど意識したことがなかったです。
門をくぐると天守台が見えてきます。当時は4重の天守閣があったそうですが1743年の大火で焼失、その後は再建されていないとのことです。
堀から天守台を見上げたところです。
天守台からの長めです。高いビルは大分合同新聞社ビルです。
天守台から北西側を眺めてみますと北の丸と間が廊下橋でつながっているのがよく分かります。
天守から南を眺める風景です。
天守台から東側を望みますと内堀と二重櫓が見えています。
本丸の跡です。
天守台の石垣の下には祠がありますが下の掲示板によると人柱となったお宮さんを祀るための祠とのこと。
掲示板より、
人柱お宮の碑です。今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになりました。上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱となりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。毎年3月18日に法要が行われているそうです。悲しいお話ですね。
着到櫓の内側です。
東の丸北側の二重櫓の内側です。
西の丸の南西の西の丸角櫓です。
西の丸の北西側には二階櫓の跡で石垣のみが残ります。
東の丸の北西の二階櫓です。この角度で見ると石垣がしっかり張り出していて防御の構造設計が見て取れます。
東の丸の南西角の平櫓です。右奥には二重櫓が見えます。
あまり意識したことはなかったですがこのあたりは荒城の雰囲気がよく出ていますね。水手口と呼ばれる部分で非常時には小舟で脱出ができる緊急避難路ともいわれています。
府内城に残る人質櫓です。1861年の再建と伝わりますが江戸時代のものです。
廊下橋の内側ですが西の丸と北の丸(山里丸)を結びます。
西の丸から廊下橋に通じる石垣と門の礎があります。
西の丸から見た廊下橋です。
廊下橋ですが西の丸と北の丸を結んでいたことが分かります。
北の丸に位置する松栄神社です。ここも子供のころからよく境内で遊ばせてもらいました。
非常に縁起もある立派な神社です。正月には毎年お参りしています。
西の丸隅櫓です。ここからの景色が最も府内城では使われているように思います。
宗門櫓です。人質櫓とともに現存する江戸時代の建物になります。現在の建物は安政6年(1859)に再建されたものです。
江戸時代の城郭建築が残ります。
堀には鯉がたくさんいますが例によって亀もたくさんいましたね。
今回何十年ぶりかで回りを一周してみましたが約1キロメートル、20分くらいの広さです。とにかく子供のころ以来で懐かしかったです。
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