福岡は水郷で有名な柳川へ旅する機会ができました。私には水郷というよりも立花宗茂の町という印象が強くその史跡も合わせて訪れてみたいと思います。(201705)
柳川市に行くには天神から西鉄電車で行くのが良さそうです。西鉄柳川駅に降り立ちました。
バスにて水郷柳川の中心街・沖端に移動しますが早速のどかな川下りの風景が見えてきました。
柳川藩主立花邸の「御花」を訪問します。御花は1738年柳川藩五代藩主立花貞俶が柳川城の南西隅にあたる、当時、 御花畠と呼ばれていたこの地に別邸を築いたこごだ起源だそうです。
明治時代になって立花家は伯爵となったため御花の邸宅も新築され、明治43年には洋館と和館が並び立つ新しいスタイルの立花伯爵家住宅がとなったとのことです。
西洋館は木造2階建ての洋風建築で立花伯爵家の迎賓館として使われていたようです。
和館の御役間などが残っています。
楽しみにしていた立花家資料館を訪れます。
宗茂の妻になりますが誾千代の甲冑も展示されています。
誾千代は城主となったものの宗茂が夫になったことであまり表舞台の活躍は無いまま浪人となった宗茂の帰りを待って亡くなってしまったのでしょうか。
立花家には初代藩主立花宗茂をはじめとして、歴代藩主の武具甲冑が数多く伝わっているようです。
立花宗茂の鎧ですが地鉄は厚く重量が草摺とも12キロもあるそうです。宗茂は当時としてはずいぶん体格の良い人物であったことが想像されるとのことです。
人の顔のような文様で、鎧は鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく)と呼ばれます。
道雪の雷切丸などの刀剣も別に別に展示されていました。
立花(戸次)道雪についての解説です。
立花宗茂についての解説です。
柳川のグルメと言えば鰻なんですが、川の側にもたくさんの鰻屋さんが立ち並び良い臭いが立ち込めます。
川の端っぺりに沖端水天宮が鎮座しています。地元では「水天宮さん」と呼ばれています。
沖端水天宮の祭りも毎年5月3日から5日までの3日間、夏場に多くなる水難事故を防ぐため行われているそうで、掘割に舟舞台を浮かべ芝居や別名「オランダ囃子」ともいわれる水天宮囃子が奉納されるのが圧巻とのこと。
時には橋が船スレスレになっているところがあり、皆が頭を下げて通っているのが可笑しかったです。
少し歩きますが学校グラウンドの隣に積まれた石垣は柳川城跡です。かつての城跡は天守台、石垣、堀が柳川城本丸跡として残っています。
関ヶ原の戦いの戦後処理により、秀吉への義を貫いて西軍に付いた宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石の柳川城主となりました。しかしその後田中氏が改易になると立花宗茂が筑後32万5千石のうち10万石だけ与えられ再度柳川城主となり復活を果たしたという複雑なお城です。
右奥の森が柳川城跡ですが隣の柳城中学校はリオオリンピックバタフライ銀メダルの坂井選手の出身校だそうです。
この柳城中学校と柳川高校は完全にかつての城跡の中に建っています。回りを堀に囲まれています。
その奥まったところに田中吉政の銅像が水郷を見つめます。
田中吉政はあまり武将としては目立ちませんが、関ヶ原の合戦時に逃げた石田三成を捕縛した功績で名前が知られています。この柳川の地もその貢献度がものを言っているようです。
これからは紫陽花が花盛りになるでしょうからますます趣が出てきますね。
狭い水路を綺麗に離合していきます。他では見られない美しい風景です。
途中川下りにもドライブインのような立寄り買物スポットがありました。アイスクリームやビールなど買うことができます。暑くなってくると太陽をまともに受けるので冷たいものがよく売れるのでしょう。風情がありますね。
旧柳川城に建つ柳川高等学校です。
たくさんのスポーツ選手を生み出している柳川高校ですね。昔からテニスが抜群に強かった印象がありました。松岡修造、福井烈などお馴染みですね。
最後に柳川城から見て鬼門方向になりますが立花家のゆかりの三柱神社にお参りして帰ることにします。
三柱神社は祭神として戸次道雪、立花宗茂、道雪の娘にして宗茂の妻の誾千代の三体の神が祀られています。当初からこの三柱の祭神が一所に祀られていたわけではありませんが、後で合祀されて一緒に祀られたということです。
近年では宗茂の復活力の御功績を以て必勝・就職・再就職・復活の社としての人気があるようです。勝負事には強そうです。
立花宗成は大分の出身(豊後高田市・筧)で、郷土の英雄になりますかね。戦国武将の中では知名度が今一つですが、豊臣秀吉からは「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評されたこともあり、武将としての評価は相当高かったと思われます。今回そのゆかりの地で様々な史料を目にすることができたいへん有意義でした。立花宗茂のことを知らない人のためにぜひ大河ドラマで伝えてほしいですね。