日野市は新撰組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地ということもあり資料館や史跡が数多く残っています。 今回は新撰組の史跡をたどりそのその歴史を振り返ります。(2014/11) また墓所にも訪れました。

東京から中央線快速で約1時間、まずは新撰組のふるさととも言っても良い、日野駅を歩いてスタートします。珍しい民家風の素朴な造りの駅舎になっています。

駅前の地図を見ていますが、駅から500メートルくらいに新撰組関連の資料館や史跡が集まっているので、日野地区は回りやすく、ありがたいですね。早速散歩気分で出かけたいと思います。

駅から歩いて約5分、住宅街の中にこの大きな誠の文字が非常に目立ちます井上源三郎の資料館です。井上源三郎は六番隊隊長として新撰組の中心で活躍します。特にあの池田屋事件、蛤御門の変でも腕を振るい存在感を示します。

展示の資料の中で、近藤周助より源三郎に与えられた天然理心流剣術免許を見ることができます。源三郎は寡黙な人であったそうですが近藤、土方、そして沖田の4人は同じ天然理心流の同門ということで信頼関係は死ぬまで切れることはなかったようです。

ここから歩いて5分の宝泉寺に墓と墓碑があるとのことですのでそちらにも訪れます。

境内にある井上源三郎の墓です。源三郎は鳥羽・伏見の戦いの中、淀堤千両松にて銃弾に討たれて死亡したと甥の井上泰助が伝えています。首を持ち帰ろうとしてどこかに埋葬したとも言われています。

やはり駅からすぐ甲州街道に面して八坂神社を訪れます。ここにも面白いものがあるとのこと。

安政5年(1858)に八坂神社に奉献された剣術額に日野宿の剣士たち23名と近藤(嶋崎)勇、井上源三郎、沖田(惣次郎)総司の名が連ねてあります。皆剣術に没頭して毎日修行・精進していたのでしょうね。このころまでは普通の剣士達という感じでしょうが、時代の風雲により大きく皆の人生が変わっていく訳です。 

日野は甲州街道5番目の宿場町です。この街道がそのまま京都に通じる道でした。

日野宿本陣ですが建物は唯一当時のものが残っているそうです。この前あたりに佐藤彦五郎が道場を開いていたとのことで、若き日の近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助などすでに新選組の主要メンバーが汗を流していたことに驚かされます。


次に駅から少し離れますが佐藤彦五郎資料館です。佐藤彦五郎は天然理心流近藤周助の門下で剣法を学びその後佐藤道場を開いて多くの剣士を育てたようです。近藤たちが浪士組で上洛する際には名手として地元に残りましたが、その後長いこと資金面で近藤達を支援してきたようです。死を覚悟した土方歳三が函館から市村鉄之助に写真や遺品を佐藤彦五郎へ託した話は有名です。

次に関東三大不動の一つである高幡不動尊に向かいます。日野からは少し離れますのでバスに乗って移動します。仁王門は国の重要文化財となっています。

境内は秋の菊まつりや七五三など多くの催しで賑わっていました。地元の人々に愛されているようですね。

ここは土方の菩提寺である縁から境内には土方歳三の銅像や殉節両雄(土方、近藤)の碑が置かれています。当初は徳川慶喜に依頼したところ涙を流すだけで引き受けてもらえなかったというエピソードが残っています。


土方歳三が絵馬にも登場します。ピンチでも信念を曲げることなく突き進む勝負運が付きそうですね。

高幡不動尊の全景ですが、想像以上に広大な境内です。

このお不動さんの周りには新撰組に関する看板があるなどあちこちに新撰組の香りが漂います。

こんな土方の壁画もありました。

一駅ですが多摩モノレールに乗って高幡不動尊から万願寺に向かいます。土日は多摩動物公園があるせいか家族連れでモノレールが満員状態でした。

万願寺駅には土方歳三の資料館があるはずですが、駅を降りてすぐですが大きな看板が出ておりすぐに分かります。

土方歳三資料館です。通常は第1・第3日曜日の12:00~16:00しか開館していないので、うまく日を合わせて今日来ることができました。展示品がすごいですね、歳三が池田屋事件で使用したと伝わる鎖帷子、8月18日の政変時に使用した鉢金、歳三の人となりを詠んだ榎本武揚書の書など、生々しい遺品が数多く並びます。

入口を入ると土方歳三さんがお出迎えしてくれます。しかし近所を徘徊してみると何軒か土方という姓がありましたが、この地域には土方姓が多いようです。

展示品の写真は撮れませんが、この屋敷のについての解説が表示されています。

また、土方歳三が函館で亡くなるまで使用していた遺品の刀などまさに歳三の魂の籠った兼定は国宝級の価値がありそうです。

そして土方家の墓所の石田寺です。歳三の墓碑もあり毎年5月の命日に合わせて歳三忌には多くの人が訪れるということです。


そして時も場所も変わって流山ですがここには近藤、土方離別の地になります。甲州勝沼から戻った新撰組は流山に本陣を置くわけですが、新政府軍に囲まれるや近藤勇は単身で出頭し斬首されてしまいます。まだ戦い足りない土方ともう戦いに疲れた近藤の道がここで別れてしまうわけです。

流山の新撰組布陣跡ですが、勝沼から引き揚げた近藤勇には既に戦う名目も気力も無くなってしまっていたのではと感じます。後で会津で近藤の刑死を知った土方は号泣し会津天寧寺に墓を建てて弔ったということです。

近藤勇の人生はここで終わってしまうのですが、一方土方歳三はさらにここから宇都宮、仙台、函館と転戦しさらに一人輝きを増していくのがすごいことです。近藤勇が賊軍の汚名を着せられて処刑されたことも彼の執念を維持させたのでしょう。。

ぜひ新撰組の史跡は各地区でしっかりと残していってほしいですね。

JR板橋駅東口すぐに新撰組の墓所があります。長く生き残った永倉新八が近藤の処刑場近くに近藤と土方の墓を建てて整備した墓所です。

永倉新八自身の遺言で遺骨の一部と遺髪が埋められているそうです。永倉は途中で新撰組を脱退していますが共に同志として同じ土地に眠ることを希望したようです。

また縁結びとして知られる浅草の今戸神社ですが新撰組の旗が見えます。最近では招き猫の発祥の地とも知られますが沖田総司が江戸に戻って治療で滞在していた場所と言われます。

境内には沖田総司終焉の地の碑が建っています。沖田総司は松本良順の住む今戸神社で肺結核の治療中に死んだのではと記録が残ります。

しかし最近の説では沖田総司は今戸神社から駕籠でこの地区に移った亡くなったと言われています。千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅跡です。

信濃町の駅を降り道路に沿って15分歩いて大京町というところに白い看板が出ています。もう肺結核は治るすべもなく一人で寂しく亡くなっていたということでしょうね。


一日、日野から高幡不動、万願寺と回ってきましたが、様々な資料や史跡を見るにつけ当時の新撰組の若き剣士たちの希望と夢が溢れていた時代を感じられてたいへん良かったです。田舎の普通の剣士達がひょんなことから上洛し剣を持って大活躍し一世を風靡するわけですからね。後半は東京に残る史跡・墓所を訪れた記録ですが、京都で大活躍した新撰組ですが政府軍から追われるように江戸に戻り寂しい最後を遂げた近藤勇など、史跡も悲しく目に映りました。

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