今は軍師と言えば黒田官兵衛が有名ですが、関ヶ原の合戦の最中にも九州では蜂起しようと活動してしていました。中津城の城主でしたが別府市内にも戦の軌跡が残っていますので、いくつかご紹介します。
まずはJR別府です。別府観光の祖、油屋熊八像がお出迎えしてくれます。
さすがは湯の街別府です、駅前で足湯というか温泉が湧きあがっています。
あまり知られていませんが別府にも立派なタワーが存在します。別府タワーです。
時間があれば鶴見岳のロープウェイに乗って別府の街を見下ろすと扇状地形がよくわかると思います。だんだん桜の花がきれいな時期になります。
九州の関ヶ原と呼ばれる合戦についてですが、大友宗麟の後を継いでいた義統について説明しないといけませんが、彼は朝鮮出兵の際に失態を起こして秀吉の怒りをかって所領没収のうえ蟄居処分となってしまっていました。だた秀吉が亡くなってからは蟄居は許されたものの、浪人として毛利に預けられていました。当然の事ながら毛利から西軍へと誘われさらに大坂城の豊臣秀頼からの軍資金や軍備の援助と勝利した際に豊後一国を確約までもらって旧領の回復に立ちあがった次第です。当時豊後のほとんどは西軍支持でありしかも東軍の細川忠興の所領・大分の飛び地、杵築城はわずかな城兵で守っているだけの居留守状態、この絶好のチャンスを見逃すまいと、周防を発ち海路豊後へと向かい旧大友の家臣や浪人の身となっていた者たちが参集させ一気に戦争モードに突入します。
(現在の杵築城です。)
現在の杵築城の内部は資料館の様になっています。
一方中津城の黒田如水は、盟友細川忠興の杵築城に何かあれば支援をということで、中津城から杵築城へ向かいここから九州の関ヶ原合戦、石垣原の戦いに突入していきます。杵築城を攻撃していた大友軍は黒田軍の先発隊の接近情報を知り別府は立石まで撤退し布陣します。この後黒田軍が実相寺に布陣し別府石垣原において戦いの火ぶたが切られます。
(こちらは現在の中津城です。)
それでは黒田官兵衛ゆかりの合戦地を探索します。 別府は坂の街ですが、餅が浜から少し山側に上がった地域(立石)に古戦場が存在します。旗が立っていたので辛うじて見つけることができました。九州の関ヶ原と呼ばれる石垣原の戦場跡の碑があります。
石垣原古戦場跡の碑が立っていました。このあたり一帯が石垣原の古戦場になります。失地回復を図る大友軍と黒田軍の激しい戦の現場です。
碑の裏を見ると確かに黒田如水の名を見ることができます。如水は中津城(豊前)から大友氏の征伐に向かってこの地で大激戦という形になりました。
この古戦場の碑から近くですが、七つ石神社という史跡があります。黒田官兵衛の敵側になりますが、槍使いの吉弘統幸(よししひろむねゆき)が大石の上に立ち、最後の力を振り絞って槍をふるったいう言い伝えが残っている場所です。
確かに七つ石神社の中に大きな岩が鎮座しています。境内には七つ石温泉もあり別府らしい史跡という気がしました。昔は激戦地でこの一帯が血に染まったと言われています。
七つ石については看板が立っており、解説が分かりやすかったですね。
また黒田側の布陣する実相寺の辺りの住宅街の中、角殿山南側の第一公園公園の傍らにひっそりと黒田如水の本陣跡碑を見つけました。外はご覧のとおり住宅街です。
確かにここが黒田官兵衛の本陣のだったのですね。このあたりに布陣していたということですね。
実相寺という地域ですが、今はJリーグのキャンプにも使われるサッカー場とか野球場がありますが、この一帯がかつての黒田軍エリアになるのでしょうね。
また実相寺からほど近く石垣の吉弘神社です。黒田官兵衛の敵側、大友宗麟に忠誠をつくした吉弘統幸を祀る神社です。実際の大友軍は立石砦に鶴翼の陣を取っていました。
吉弘統幸は最後に大友義統に別れを告げ手勢30余騎で黒田勢に勇敢に突撃し、七つ石において自刃して討たれたといわれています。
これは現在の府内城です。天守閣はありません。城跡は大分城址公園となっています。この城は大友宗麟とはそれほど関係はなく宗麟が臼杵に移った後の城です。