京都の街は最も新撰組が光輝いた場所です。1863年に清河八郎に先導されて上洛して以来その功績はあまりにも有名ですが、敢えてその足跡を追い求めてみました。
まずは新撰組が長州藩中心の陰謀を事前にキャッチし、近藤勇、沖田総司ら5名が2十数名の討幕派の集まりに切り込んだという有名な池田屋の跡です。土方部隊は遅れて到着したのですが、土方歳三の着けていた刀傷だらけの鉢金は日野の土方家に残っています。この事件をきっかけに新撰組は一気に名を挙げることになります。
京都守護職に任ぜられた会津藩主、松平容保公が本陣を置いた金戒光明寺です。ここは御所まで近いことや1000名規模の浪士を収容できること、黒谷という地形が天然の要塞となりえるなどの理由で京都守護職の本陣になったと言われます。しかし松平容保が守護職を引き受けざるを得なかったことで時代は大きく動き出します。
当時会津藩士約1000名が拠点とした金戒光明寺ですが、近藤・芹沢の両局長もここで京都守護職松平容保に拝謁がかない、使命感に燃えたことでしょう。
すぐ近くの真如堂です。秋は紅葉見学で観光客が大挙してきますが、今は殺風景なほ人は少ないです。
少し腹がへりましたので、平安神宮そばの山元製麺へ行きました。実は開店前の時間を狙って並ぶのを覚悟で訪問しました。 (10人待ちでした)
狙っていたのは土ごぼううどんです。元々ごぼううどんが大好きなので、テレビで見て一度食べてみたいと思った次第です。並んだ甲斐があって美味しかったです。
新撰組と言えば壬生が有名ですね。新撰組との縁が深い壬生寺ですが境内にはあの芹沢鴨など新撰組隊士の墓も多く存在します。
この広い境内で新撰組の隊士たちが剣術や武術の稽古などを行っていたのかと思います。また沖田総司が子供たちと遊んでいたという話も伝わります。
境内の壬生塚には新選組隊士の墓などがあります。近藤勇の胸像が見守ります。また新選組顕彰碑も拝むことができます。写真は撮れませんでしたが芹沢鴨の墓も中にあります。
その他新撰組の隊士が複数人の墓が祀られています。
近藤勇像の後ろの木にはセミが群がっていました。まるで近藤勇を見守っているのか、近藤勇が呼び集めたのか不思議な光景でした。
また境内の阿弥陀堂の地下には歴史資料室があり(有料)壬生狂言や新選組についての解説をパネルや写真を見ることができます。
新鮮組の屯所の八木家を見学させてもらいます。中には芹沢鴨と平山五郎が粛清された部屋や、芹沢鴨が躓いた文机や刀傷のついた柱などが見学できます。当時の人は身長が低かったのか天井が低いという印象ですね。
八木家の入口の案内板ですがこの説明が分かりやすいですね。新撰組はその後西本願寺に移りますので壬生には約2年しか居なかったわけですが、この時期に大きな実績を残したことになります。
お隣の御菓子司京都鶴屋さんは八木家に由来する名物のお菓子などが食べられます。見学後にお茶とお菓子をいただけます。
壬生寺近く、近藤勇他の旧壬生屯所として知られている前川邸です。当時は八木邸、前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ今もこの前川邸、八木邸が残っています。前川邸の屋敷の総坪数は443坪、部屋は12間あり146畳という広い家だったとのこと。
新選組の屯所に近く毎夜のように繰り出していた島原の大門です。その島原の名称は島原の乱から取ったということです。
島原の名前は島原の乱から来ているとのことは初めて知りました。
角屋に向かう角にはなぜか久坂玄瑞密議の碑が建っています。長州藩の藩士も出入りしたようですが、久坂玄瑞はあの蛤御門の変で最後に自刃して果てています。
島原に現存する江戸期の揚屋建築と言われる角屋です。
幕末は様々な藩士が出入りしていたようで、新撰組の芹沢鴨もここで暗殺目的で酔わされて八木邸で闇討ちされました。殺害の黒幕は不明ですがそれ以前に芹沢鴨が角屋をはじめあちこちで騒動を起こし、松平容保の怒りに触れたためとも言われます。
壬生寺の正面にある新徳寺です。清河八郎によって江戸から集められた浪士隊が江戸に戻るまでの間滞在した場所です。この地で清河八郎の演説が行われたのでしょう。
新撰組の隊士が増えるにつれ手狭になったためか、壬生寺から西本願寺へ屯所を移転します。2年後には再度不動堂村へ移されることになりました。
次に京都御苑に足を延ばしました。これは御苑西門の有名な蛤御門です。長州藩の反乱による激戦が行われた場所で当時の弾痕が残ります。めったに開かない門としてハマグリと呼ばれていたそうです。
戦乱の際に長州藩の核弾頭、来島又兵衛爺さんがこのあたりで討死にしたと言われる椋の木です。清水谷家の椋と呼ばれます。この蛤御門の変により幕軍が敗敵の捜索のために民家に手当たり次第に放火したことにより京の町は火の海に包まれてしまったということです。
京都駅から通りを渡ってすぐですが本光寺というお寺の前に伊東甲子太郎外数名殉難の跡の碑が建っています。 途中から新撰組に加入した伊東は佐幕を貫く近藤との溝を埋めることができず脱退し高台寺党と呼ばれるわけですが、“脱退は死”の掟によって暗殺されることになります。
近藤勇妾宅でたっぷり酒に酔わされての帰り道、闇討ちされた伊東甲子太郎ですが、遺体は油小路に放置され遺体を引き取りに来た脱退組まで一挙に殲滅されることになりました。
さて次に伏見に移動します。(30)