豊後・鶴崎から肥後へ抜ける道は、加藤清正公が1588年に初めて肥後国に入国した際に通った道とされ、後に清正によって拡張され肥後と豊後との間の主要な街道になりました。
江戸時代には豊後の豊後街道沿いの久住、野津原、鶴崎が熊本藩の飛び地となり、熊本藩の参勤交代は、豊後街道を通って陸路で九州を横断した後、鶴崎の港から海路で瀬戸内海を通って大阪、江戸に向かっていたそうで、熊本から鶴崎までは4泊5日を要し、大津、内牧、久住、野津原の4つの宿場が整備されました。さらに後にこれらの間の坂梨、今市等にも宿場が設けられました。1864年に四国艦隊砲撃事件の調停幕命を受け、江戸から長崎に向かった勝海舟、坂本龍馬等一行は、船で佐賀関に上陸した後、豊後街道を通って熊本経由で長崎に向かっています。今回はこの足跡を追って佐賀関から竹田を走ります。

まずは関アジ関サバで有名な佐賀関港から少し歩いて5分くらい高台にあるのが徳応寺です。この寺に勝海舟と坂本龍馬の芳名帳が残っており、閲覧することができます。海舟日記にも、佐賀関において「2月15日 5時 豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿す。と記録があります。龍馬は海舟が開いていた海軍塾の塾生で操作技術や航海塾などを学んでおり海舟が長崎へ同行させることになった次第です。

お寺の一角がギャラリーのようになっており自由に見学することができます。このお堂の中で一行は宿泊したのでしょう。


様々な資料やパンフレットが置かれていました。

 
坂本龍馬ファンをはじめたくさんの関係者が訪れています。武田鉄也さんや勝海舟のご子孫の方など多くの方の写真がありました。

 

最も有名な芳名帳ですが確かに坂本龍馬の名が見てとれます。(長崎からの帰路) 他にも第10世住職東光龍潭が船のスケッチも含め詳しく記録に残しているのが貴重です。ちなみに後の西南戦争の際には警視庁隊員として元新選組の藤田五郎(斎藤一)も薩摩軍の制圧のため佐賀関に上陸しこの寺に宿泊した可能性があるそうです。

 
改めて港を散策してみると、海舟・龍馬の上陸地点の碑(看板)がありました。 当時と地形が違うため明確に特定はできませんが、大方この辺りだろうとの看板がありました。

現在の上陸地点あたりの風景です。煙突は日鋼佐賀関です。

看板には詳細が掛かれておりますが、宿泊名簿には確かに二人の氏名と、第二長崎丸のスケッチも書かれてあり、佐賀関上陸の状況が目に浮かびます。何も無いこの港町に初めて二人が上陸を果たしたという歴史上の事実ですね。


勝・龍馬一行は佐賀関から鶴崎、野津原、久住へと佐賀関・肥後街道を通り長崎に駆け抜けます。現在は龍馬街道という名前の付いた看板が建っている道があるそうです。

今でも大変な山道ですが、これを大きな役目を抱えた二人が健脚で駆け抜けていったわけですね。ちなみに復路の帰り道も同じコースを通っています。現在も残っている道もあり維新の道として地元で保存されているところもあります。

一行は神戸を2月14日に出帆し15日には佐賀関についていますが、それから陸路23日に長崎についています。海路がいかに早くて便利であったかが分かりますね。

街のシンボルは関あじ・関さばでしょうが、坂本龍馬についての記載も街のあちこちで見かけます。

佐賀関の入り口にも龍馬の写真がお出迎えしています。

 
現在も佐賀関港からは四国とのフェリー航路があって船が行き来しています。当時から四国、大阪との九州の玄関であったのは間違いないでしょう。

 
記録は不明ですが、一行が到着した際には珍客であるということで町を挙げての接待が行われたという話が残っており、その時の屋号についての看板が立っていました。

 
現在はきれいな市民センターも建っており、龍馬が上陸したころの田舎町という雰囲気は変わりつつありますね。

佐賀関の海は流れが速く当時の船はかなり揺れて船旅も大変であったと思いますが、この佐賀関が九州の海路の玄関として歴史の一ページに出てきたわけです。

翌日(16日)の宿泊地は鶴崎ですが、現在は鶴崎高校の中に碑が残ります。勝海舟・坂本龍馬の宿泊地、鶴崎の本陣跡です。鶴崎において「16日、豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀関より5里。此地、街市、可なり、市は白滝川に沿う。山川水清、川口浅し。」とあります。

 
勝は「大御代はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴崎」と詩っています。

 
本陣跡近くにある法心寺ですが1601年加藤清正公が建立。本殿に加藤氏歴代の位牌、宝物館に遺品を残す由緒ある寺とのことで、門前に清正公の銅像が立ちます。


碑によると当時鶴崎は肥後の飛び地になっており、交通の重要なところであり、参勤交代の時など熊本城を出て、阿蘇を越え、鶴崎の港から出港し、瀬戸内海を経て海路、大阪・江戸へ向かったそうで清正がここ鶴崎に自ら寺を建てたということです。大分で加藤清正公にお会いできるとは歴史を踏みしめると面白いですね。


さて一行は17日に野津原に宿した後、岡藩の宿場町として栄えた野津原・今市を通ります。現在も街道には 当時の石畳が残っており、当時の面影を色濃く残しています。


肥後藩主加藤清正公が参勤交代の道路として整備した肥後街道今市宿の一部です。幅8mのうち中央部分の2mが石畳で延長660mに及びます。かつてはその両側に宿場が形成され、本陣、脇本陣をはじめ茶屋、代官所、造酒屋等が軒を並べていました。大分県指定史跡です。

 

信玄曲りです。理由は定かではないですが 端から端を見通せないような作りになっています。

 
今市宿の見取り図の看板が出ています。

 
ここにもありました、加藤清正公創建の丸山神社です。1611年に当時の熊本藩主・加藤清正が安全祈願のため菅原道真を祀る天満社を建てたのが始まりです。参勤交代の際の宿場として考えると特に不思議ではありませんね。

 
さて次に竹田市・白丹という小さい集落に来ましたが、ここにも勝・龍馬が通過した記録が残ります。看板もあって幕末維新の道と書かれていますが、豊後街道・肥後街道にあたります。

 
勝海舟が日誌に記載していた珍しい石橋も現存します。海舟が目にした「神馬(かんば)の石橋」ですが日記には「小流甚だ多く架する橋は皆石橋、円形に畳み橋桁なし」と書かれています。豊後の石橋の文化に驚いたのでしょう。

 

何の変哲も無い古い橋のようですが、当時はこの石のアーチ橋の構造がたいへん珍しかったのでしょう。

 

この近くには同じような石橋が多数存在します。このあたりの風景を眺めながら一行は急ぎ足で長崎を目指して行ったのでしょう。

帰りに近くの長湯温泉のラムネ温泉によって癒されてから帰りました。勝・龍馬一行が温泉に立ち寄った記録はないですが、このあたりを通ったのは間違いないでしょう。ここは本当に体が温まっていつまでも体の芯からポカポカします。


彼ら一行はこの後熊本へ宿泊(20日)、島原半島に渡り長崎へ到着(23日)して外交交渉に当たります。機会があれば肥後街道を熊本や長崎までの勝・龍馬を追いかけてみたいと思います。
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