大分(豊後)は戦国時代には九州六か国を支配する一大勢力でしたが全国に先駆けた南蛮文化が花開いていました。すべては大友宗麟とフランシスコザビエルの出会いから始まったと言えますがその史跡を訪ねて巡る旅をしました。(2016/5)
昨年リニューアルした近代的な大分駅の前には二人の像が並びます。1551年布教のために日本を訪問して来ていたフランシスコ・ザビエル像です。薩摩~平戸~山口~堺~再び山口と回りその後運命的に豊後を訪れることになったザビエル像が今も大分の地を見守ります。
そしてもう一人はそのザビエルをこの豊後に呼んだ大友21代当主、大友義鎮(宗麟)です。この出会いにより義鎮はキリスト教に傾倒しキリスト教を庇護し、いち早く世界に目を向け貿易を奨励し当時の府内(大分)に南蛮文化が栄えることになりました。
市内の港に近い場所ですが神宮寺浦公園には大友義鎮(宗麟)像と南蛮貿易場記念碑が建ちます。恐らくこの辺りがまだ海で南蛮船が往来し他国の文化が大いに栄えていたものと思います。
市内大友館からも歩いて15分くらいの距離になります。府内の時代の史跡が多数存在します。
この南蛮文化を後世に伝えようと大分県庁前の遊歩公園には様々なブロンズ像が並びますので紹介します。まずは大友義鎮をキリスト教の虜にしたフランシスコ・ザビエル像です。
西洋音楽発祥記念碑があります。当時の神父たちは教会でオルガンをひいて賛美歌を歌ったそうです。当時の府内の子供たちも初めて聞く西洋音楽に大いに感銘したことでしょう。
西洋医術発祥の地の像ですが、当時わが国最初の西洋式病院を建て西洋医術を実践した外科医のアルメイダの業績を顕彰するものです。アルメイダ氏は布教を行い孤児院を建て外科手術を行い外科医学を初めて日本に伝えた人物です。大分には氏の精神を残そうとアルメイダという名の病院が存在します。
馬に乗る伊東マンショ像です。教科書で習ったと思いますがローマに派遣された天正少年使節の4人のうちの一人伊東マンショはセミナリヨで学んでいて大友義鎮の名代として派遣されていました。
現在のこの広場には大友氏遺跡体験学習館があって大友氏の歴史をビデオなどで分かりやすく紹介してくれています。当時もっとも大きな万寿寺の寺域があったところです。
この辺りは幹線道路沿いで良く車で通るあたりなんですが、そのすぐ横で大友館の発掘が行われています。当時府内と呼ばれたこの辺りが中心街であったと思われます。
既に発掘調査が終わりブルーシートがかけられていますが、ここ府内に大友館が存在したことが分かってきました。大友宗麟の全盛期には豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の六ケ国を制覇し九州全域を支配するかの勢いがあったわけです。その手助けとなったのが南蛮貿易でしたが宗教的な反抗や謀反も多々起こって争いが絶えなかったという印象です。
さらに北に歩いた住宅街ですが現在も発掘が行われています。この辺りは当時の寺も多数存在し府内の中心があったと想定されます。
またすぐ近くに上野丘高校のある丘の上に大友館跡(上原館)が存在します。ここは義鎮の父が義鎮を廃嫡しようとした騒動(二階崩れの変)の場所ではないかと言われています。結果的にクーデターは失敗し義鎮が当主となることになります。
大友館ということでまだ城ではなく土を盛り上げた土塁のようなものだったと推測できます。ただここから九州の大部分を支配するまでに勢力を広げていったのでたいへんな実力があったと思います。
またこれも府内の顕徳町になりますがデウス堂跡地の碑が建ちます。1553年に建てられたキリスト教の教会堂ですが、ダイウス堂、顕徳寺、府内教会とも呼ばれていました。
大分市民にはお馴染みの大分府内城(再建)ですが、こちらのお城は1997年の築城です。大友義鎮は臼杵城を中心としており府内城の築城は彼の死後かなり経ってからになります。
こちらの廊下橋も最近になって再建された新しいものです。
【臼杵編】
大分から車で約40分、臼杵の街にやってきましたがこちらには大友義鎮(宗麟)が築城した臼杵城があります。1562年に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築きその後大友館 から拠点を移していたとされ、 これが今日の臼杵の町の礎となっています。
正面から登ると復元された二の丸大手門に当たる大門櫓があります。
このような急なヘアピンの様な坂を登って城を目指します。
島津軍に攻められた際に宗麟はこのフランキ-砲を討ち返したと伝わります。南蛮貿易を行っていたためにこのような最新兵器も入って来ていたのでしょう。
城跡には大友宗麟公のレリーフ碑が建てられています。宗麟は1578年には臼杵の教会において洗礼を受けドン・フランシスコと命名されています。彼は日向の地にキリスト教の戒律を規範とする理想郷を建設する夢を抱いていたようです。しかし皮肉なことに内部で宗教対立を生むなど結局はキリスト教が障害になってしまい夢は叶いませんでした。
街中をぶらついている白壁の蔵に興味深いタイル壁画が出てきました。1860年創業の造り酒屋一の井手久家本店が貯蔵庫として使用していた酒蔵だそうですが、その絵の中には天正少年使節の伊東マンショの姿もありました。
臼杵のシンボルと言えばフンドーキン醤油ですが元々は酒屋だったそうですが、樽の空いた時期に味噌醤油を作っていたところ現在はそちらの規模の方が大きくなっているということです。
稲葉家下屋敷は廃藩置県に伴って東京へ移住した旧臼杵藩主・稲葉家の臼杵滞在所として1902年に建築されたものです。 臼杵の城下町に良く合います。
中は広々とし昔の家は風通しが良いのが心地良いです。
さて臼杵で郷土料理のランチを食べてみたいと思いますが、左の黄色いご飯は黄飯と呼ばれます。南蛮人の伝えたパエリアが基になっていると伝わった料理ですが、現在はクチナシで色を付けてパエリアに似せて食べるめずらしい郷土料理です。
【津久見】
また足を少し伸ばして津久見の町にやってきました。臼杵からは車で20分位で着きますがここにも大友宗麟の史跡が残ります。JR津久見駅の前にも大友宗麟像が出迎えてくれました。
車で5分程津久見高校の前を通って少し丘に入ったところに宗麟公園があります。ここに大友宗麟の眠る墓があります。
宗麟はクリスチャンですので最近になって昭和52年に建築家磯崎新氏の設計によるキリスト教式の墓が建てられました。
駅に戻る途中の高台には大友公園がありますが、海側の眺めが美しいです。
昔から大分のテレビCMで『400年の昔大分の地に西洋文化をもたらしたフランシスコザビエル~』というフレーズが耳にありましたが、あらためて歴史を振り返ってそのザビエルの業績の大きいかった事と宗麟との出会いで様々な新しい成果がこの大分で生まれたことなど歴史の感慨に浸ることができました。大分駅前には16世紀にヨーロッパで作られた世界地図が陶板に描かれています。
当時は九州全体をBUNGOと呼ばれていたことが分かります。大友宗麟の力によって豊後が九州を統一していたかもしれなかったわけです。西洋文化を開いた宗麟でしたが皮肉なことにキリスト教に傾倒したことで内部分裂を生んで宗麟は衰退していってしまいました。
大友宗麟も最後には島津に攻められ、ついには大阪城で年下の秀吉に助けを乞う事になります。その後九州は秀吉に統一されていきます。
(32)