城の成り立ちから発達発展過程を
古代から時代を下ってきて平氏から源氏へと
移り変わる時期に取り掛かったところで
現在止まってます
時代の流れの中で、政治体制の大変革時期と
なったからでしょう
複雑というか多重性というか
難解というか一元的ではないというか
ということで
①平清盛と後白河院の関係性
②源頼朝と後白河院の関係性
※後白河院とは後白河上皇のちに法皇のこと
また、院とは上皇または法皇のこと
上記の2点に絞って政治体制の大変革時期を
探ってみました
先ずは①について記したいと思います
平清盛の背景には
祖父の平正盛は白河法皇(1096年に出家)の
近臣として北面武士筆頭となり南都北嶺の
強訴の鎮圧に貢献し
また、父の平忠盛は白河法皇と鳥羽上皇の
近臣として院昇殿や武士では源頼光以来の
内昇殿が許された
という
祖父・父と2代続けて院近臣として院政に
携わっていた、ということがあった
平清盛は
これらの背景をもとに
父の平忠盛と共に鳥羽法皇(1142年に出家)の
近臣として順調に昇進していった
あくまでも院近臣として院庁において
自らの存在感を示しただけに過ぎないし
これ以降も治天の君のために仕えていた
※院庁とは上皇または法皇の政務執行機関のこと
1159年(平治元年)の政変(平治の乱)によって
源義朝ら有力な京武士達が没すると京武士の
第一人者となる
正三位・検非違使別当・右衛門督となり
二条天皇に仕え、更に院庁の別当となり
後白河上皇にも仕える
天皇・上皇双方に仕える事で自身の基盤を
盤石なものにした
二条天皇の親政開始・後白河上皇の院政停止
二条天皇の崩御後、再び後白河上皇の院政が開始
そのような情勢を経る中で、摂政を補佐する
ことによって政務に関わるようになった
1166年(仁安元年)11月に内大臣に、
1167年(仁安2年)2月には太政大臣
(この頃はすでに名誉職となっていて3か月で辞任)に任じられた
5月に後白河上皇より平重盛(平清盛の長男)に
東海・東山・山陽・南海道の山賊海賊追討の
宣旨が下された
正式に全国規模の軍事・警察権を委任され
後白河上皇の執政下で平家が軍事部門の実権を握った
※平家とは平清盛一族と家人のこと
または平清盛を総帥と仰ぐ平氏一門と家人のこと
この事によって長男の平重盛を後継者として内外に知らしめた
そして、表向きは引退し摂津国福原に移った
これ以降
❶後白河上皇との連携強化
❷日宋貿易や集積所領に基づく強大な経済力
❸西国や瀬戸内海の水軍に勢力の拡大
これらを背景にして平家の勢力を
更に拡大させていった
ところが、1176年(安元2年)7月、
後白河法皇(1169年に出家)の妃の建春門院が
薨去するとこれまで表面化していなかったか大きな問題としていなかった対立点が顕在化
後白河法皇との関係が瓦解し始め次第に対立が激化していった
平家と院近臣との対立も激化していった
1177年(安元3年)6月の鹿ケ谷の陰謀事件を
きっかけに平清盛と後白河法皇の関係が遂に
瓦解した
後白河法皇は
1179年(治承3年)6月に平清盛の
娘で高倉天皇の准母の白河殿盛子(平盛子)が
死去すると盛子が相続していた摂関家領を
管理下に置いた
更に、7月に平重盛が死去すると今度は
1166年(仁安元年)以来の平重盛の知行国
だった越前国を管理下に置いてしまった
この2つの事象の対処として
平清盛は
11月に大軍を率いて入京し要職や受領、
検非違使等々に就いていた院近臣の39名を
解官した
更には関白を左遷した上で配流に処して
朝廷を制圧し後白河法皇を幽閉し院政を
完全停止した
こうした治承3年11月の政変で
朝廷を制圧し
院政を完全停止した結果
政務を執る事になった
平家による軍事政権である
平氏政権が成立したのです
平氏政権については
政権か否か
政権とする場合にはその成立時期などが
問題となりますが
政権とみて良いでしょう
史上初の武家政権だと言えるでしょう
実質の執政者が幽閉された事によって
実質の執政機関であった院庁が機能停止し
高倉天皇は自ら政務を執るがそれはもはや
平清盛の影響下でのことであった
厳密に言えば完全な平氏政権は高倉上皇が
崩御した(この時の天皇は幼帝の安徳天皇)
1180年(治承4年)2月21日以降という事に
なりますが
先述したように
治承3年11月の政変によって
平氏政権が成立したと考えて良いでしょう
次回は
「平氏政権の基盤、知行国・勢力下の国」
です