ひらめき今回は1970年代の世界経済に影響を与えたニクソン=ショックについて勉強しますが、経済についての勉強は、いつも立ち止まってしまいます。出てくる言葉もそうですが、私のかたい頭では理解し難く混乱してしまいます。でも、避けては通れませんので、頑張ります。

 

日本は、1955年(昭和30年)から高度経済成長期にありました。

1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領は、ドルと金の交換停止、輸入課徴金を10%とする内容のドル防衛策を発表したのです。ドルの信用の高さで維持されてきた国際社会に、大きな衝撃が広がりました。

この声明は、ニクソン=ショック(ドル=ショック)と言われました。

なぜ、ニクソン大統領はこのような政策をとったのでしょう。

日本は、どのような影響をうけたのでしょうか。

 

 

ニクソン=ショック(ドル=ショック)

【至るまでの経緯】

第二次世界大戦後の世界経済は、各国の為替レートを固定し、アメリカ政府がドルと金の交換を保証することによって、信用の高いドルを基軸通貨として、成長を続けてきた。ドルは世界の中で唯一、金と交換できる国際通貨だった。

 

1950年代は、ヨーロッパ各国や日本は、輸入超過が続きドル不足に苦しんでいたが、60年代には経済の復興を遂げ、逆に輸出を増やし、各国ともドル不足を解消。むしろドル過剰の状況となった。

逆にアメリカ経済は、冷戦による軍事費の増大、ベトナム戦争の戦費、貿易赤字で落ちこみ、ドルの価値は下がっていた。さらに戦争から立ち直った西ヨーロッパ諸国や高度経済成長を続ける日本に追い上げられていた。

 

フランスを先頭にヨーロッパの各国が、ドルをアメリカの金と交換したため、アメリカの金保有高は急速に減少。そのため金価格は高騰、ドルの価値が急落し、ドルは世界中で売られるようになる。

ドルを守るためには、ドル安にしなければならず、ドルの切下げが行われた。これがドル=ショックと言われるものである。

 

【日本への影響は?】

輸出産業を軸とした日本の経済は、固定為替制度1ドル=360円という超円安によって支えられ、高度成長を続けていた。ところが、ドル=ショックの影響で、1973年2月には、円も変動相場制に移行していく。1ドル=360円⇒1ドル=260円台に突入し、急激な円高になった。

円高は、日本経済全体に大きな影響を与えることになった。

 

ひらめき日本で初めての統一通貨「円」が発行されたのは、1871年(明治4年)で、

1ドル=1円でした。

敗戦後の混乱期には、1ドル=15円→150円→270円に。

1949年には1ドル=360円に固定。

1971年のニクソンショックにより全ての国が変動相場制へ移行し、
1ドルは徐々に下がっていき、ついに87円に。

2011年の東日本大震災で、戦後最高円高の1ドル=76円となりました。

その後大胆な金融緩和で1ドル=93円→120円、現在は145円前後となっています。

 

円安、円高という言葉を、日常的に耳にします。

何度聞いても混乱してしまう、円安・円高について、説明を聞いてみましょう。

 

「円高になると輸出企業は大変だ」という話も聞きます。

輸出する場合は、円高になると損が大きくなるので、円安の方がいいのです。

輸入する場合は、円高の方が海外製品を安く買えて得なのですが・・

 

第一次石油危機(オイル=ショック)

さらに1973年10月、第4次中東戦争(アラブ諸国とイスラエル間で展開された戦争)が勃発する。アラブ産油国が石油戦力を発動し、アメリカなどイスラエルを支援国には石油の輸出を禁じ、原油価格を4倍にした。これを第一次石油危機という。

日本の産業が発展してきたのは、安い石油があってこそであった。ガソリンの高騰で、自動車も売れなくなった。

 

 

石油危機により品物が不足するという噂が流れ、トイレットペーパーや洗剤などを買いだめしようとする人々が、売り場に殺到した。人々はパニックになり、砂糖や塩まで売り切れるようになった。その後パニックはおさまったが、物価が激しくあがり、狂乱物価と呼ばれた。

  

 

石油危機による不景気で、1974年、戦後はじめて日本経済はマイナス成長となり、経済高度成長は、終わりを迎えることになった。

石油危機による不景気は、世界中で深刻化していった。

 

1975年4月、フランス・パリ郊外のランブイエ城に置いて、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリアの6カ国(G6)で首脳による、先進国首脳会議(サミット)が初めて開かれ、話し合いが行われた。

(1976年にカナダが加わってG7となり、1977年から欧州委員会委員長と欧州理事会議長が参加するようになった。ロシアが加わり1998年からG8となるが、ロシアはクリミアを併合するなどウクライナ主権と領土を侵害したことから2014年に資格停止となる。以降、G7として開催されている。)

 

ひらめき歴代の首相の中で、深く印象に残っているのは、田中角栄でした。

1972年に『日本列島改造論』を打ち出し総理大臣になりました。演説する田中節は、耳に残っています。

【内閣総理大臣に就任したころの肖像写真】

   

ニクソン大統領が訪中した後、成立したばかりの田中首相も訪中し、両国の戦争終結を告げる日中共同声明を発表しました。

『日本列島改造論』では、高度経済成長により、大都市へ人口・産業が過度の集中し、多くの若者が都会へ出ていき、農村には老人しか残りません。日本全土に新幹線や高速道路をめぐらし、交通を円滑にし、地方に工業を再配置するという構想でした。日本の発展の陰に田舎は取り残されてきたというのが原点で、多くの地方に住む人々が賛同しました。政治家としての情熱と闘争心は他に例がないと言われ、政策、決断力やリーダーシップ、実行力は、日本の政治と経済成長や産業発展に重要な役割を果たし、永続的な影響を残しました。

 

しかし1974年、土地の売買で不正にお金の受け渡しをしたことを国会で追及され、田中内閣は総辞職。さらに1976年、アメリカのロッキード社が日本に航空機を売り込むため、政府高官に賄賂を渡したという「ロッキード事件」が発覚し、田中前総理や関係した議員・会社幹部が逮捕されました。田中前総理は4年の実刑判決後、不服として1993年に亡くなるまで、裁判を続けました。

政治家の不正や不必要な公共事業はその後もなくならず、今でも問題となっていますね。お金にまつわる政治には、憤りを感じざる負えません。

 

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【使用した画像・動画などは、ネットからお借りしました。ありがとうございました。】