ひらめき民主化を進めてきたGHQが、労働運動を抑制したことを契機に占領政策に変化が表れ始めました。なぜ、占領政策を変換したのでしょう。この頃の世界の情勢が大きく影響しています。話が違うじゃないか!と言いたいですが、占領された日本には、従うしかなかったのでしょうね。

 

世界情勢の変化

第二次世界大戦後、ソ連に占領された東ヨーロッパの国々は、次々と共産主義国家となった。これに対し、アメリカは西ヨーロッパの国々の復興を助けることで、共産主義の広がりを抑えようした。アメリカを中心とする資本主義の国々と、ソ連を中心とする共産主義の国々の対立が激しくなり、冷戦と呼ばれた。

アジアでも、朝鮮半島は北緯38度線を境にして、南はアメリカ、北はソ連が占領した。1948年後半には、アメリカ軍占領地域で大韓民国(韓国)、ソ連軍占領地域で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がそれぞれ建国された。

中国では毛沢東率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍が戦った(中国内戦)

1949年10月、毛沢東の共産党軍は国民党軍に勝利し、中華人民共和国の成立を宣言した。

 

【ジョージ=ケナン訪日】

1948年3月、アメリカの国務省のジョージ=ケナンが来日した。ジョージ・ケナンは、1940年代から1950年代末にかけてアメリカの外交政策を立案し、ソ連に対し「封じ込め」政策を提唱し冷戦政策を主導した。

アメリカは、共産主義の勢力が日本に及ぶのをおそれていた。ソ連に対抗するために、日本をアメリカの戦列に加え、資本主義の国として日本の政治経済が安定するような政策の変更をマッカーサーに申し出た。占領政策の民主化・非軍事化から経済復興へと転換させたのは、ケナン率いる政策企画室であった。

【ジョージ・ケナン1947.6.25】

 

【ジョゼフ・ドッジ特別公使来日】

1949年2月、ドッジ特別公使はGHQ財政金融顧問として、経済政策を指示するために来日した。ドッジは、アメリカのデトロイト銀行頭取。

【大蔵大臣池田勇人とジョゼフ・ドッジ】

 

経済の民主化よりも日本経済の自立と復興を優先した。進んでいた財閥の解体は中断され、政府の支出を削りその安定化を図った。財政金融引き締め政策で、インフレ・国内消費抑制と輸出振興が軸で、ドッジが立案・勧告し、ドッジ・プランとも呼ばれる。経済安定9原則にしたがって、具体的な経済政策を取りまとめ、GHQを通して吉田茂首相に示した。そこでは、予算の均衡、徴税強化、賃金安定、物価統制などが主張された。

ドッジ・プランは、日本の財政再建を実現する反面、深刻な不況と社会不安をもたらした。

 

【国鉄の三大事件と共産党員の追放】

この政策によって、日本中にお金が足りなくなり、不況となり倒産する会社が増えた。日本国有鉄道(国鉄)では10万人近くを解雇した。大量解雇をめぐって労働組合が激しく抵抗していた国鉄では、一ヶ月余りの間になぞの事件が次々に起こった。

1949年7月、常磐線綾瀬駅付近で、国鉄の総裁が自殺か他殺かわからない事件が起こる(下山事件)

また、中央線三鷹駅では、無人の電車が暴走し、6人の犠牲者を出す事件が起こる(三鷹事件)

8月、東北本線の松川駅の近くで、レールがはずされて列車が脱線転覆事件がおき、3人の犠牲者を出す事件が起きた(松川事件)

当時、これらの事件は大量解雇に反対する国鉄労働組合と共産党員がかかわったとされ、労働運動は抑え込まれたが、事件の真相は未だにわかっていない。

 

GHQの命令により、官公庁の他、新聞、放送、電気などの会社から、共産党員とその同調者が追放された。

その数は12000人以上に及んだ。これをレッドパージという。

さらにその後、共産主義者とは逆に、戦争協力者として公職追放されていた人々の追放が、解除されていった。(鳩山一郎(政治家、のちの首相)、五島慶太(東京急行電鉄会長)、市川房枝(女性運動家)、正力松太郎(読売新聞社長)など)

このように、民主化をめざしたGHQの占領政策は、当初のものから大きく変わっていった。

 

朝鮮戦争始まる

1950年6月、ソ連や中国から支援を受けた北朝鮮(首相金日成キムイルソン)が、武力による国家の統一を目指して韓国に攻め入ったことから、朝鮮戦争が始まった。

武力統一をめざす北朝鮮はソウルを占拠し、さらに南下を続けた。国際連合は、北朝鮮への制裁を決定し、アメリカ軍を主力とする国連軍を派遣した。これに対し中国は、義勇軍を送って北朝鮮を支援した。一進一退の戦いは1953年に休戦協定が結ばれるまで続いた。

1953年7月、3年間続いた朝鮮戦争は、休戦協定調印によって停戦となった。しかし、国際上では現在も戦争が続いている。

 

警察予備隊の創設

1950年7月、GHQ本部のマッカーサーは、朝鮮戦争が始まるとすぐ、吉田首相に対して「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の創設が要望されていた。日本にいたアメリカ軍が朝鮮半島へと出動したため、その空白を埋めるために『警察予備隊』を作るように指示するものだった。

 

【昭和25年、警察予備隊募集の新聞広告と予備隊に応募した若者たち】

 

 

『警察予備隊』は、在日アメリカ軍の任務を引き継ぐものとして創設されており、当初は軽装備の治安部隊に近いものとして構想されていた。しかし、朝鮮戦争の戦況悪化と中国義勇軍の参戦を受けて、マッカーサーは共産陣営とまさに対峙しつつあるという危機感を強め、警察予備隊を重武装化する方針を示した。

また、戦争犯罪人の釈放や旧軍人の公職追放解除が進められ、指揮をより強固なものとするため、旧軍人の多くが『警察予備隊』の幹部に採用された。その後、『警察予備隊』は自衛隊となり、憲法との矛盾を抱えた再軍備が始まる。

こうして、日本の非軍事化という当初の占領政策が、転換された。

 

経済的にはアメリカが大量の軍事物資を日本に注文したことから、「朝鮮特需」と言われる好景気になった。占領政策が転換する一方で、朝鮮戦争によって、日本は深刻な不況から立ちあがり急速に復興していくことになる。

 

ひらめき朝鮮戦争のことがわかりやすく解説している池上さんの動画ですので、興味があればご覧ください

【BTS発言が大炎上!その元となった朝鮮戦争の歴史をわかりやすく解説】

余談ですが今、韓ドラで話題になった『愛の不時着』(ネットフリックス)を観ています。まだ2話ほどですが観ていると、軍事境界線の生死を分ける緊張や、韓国と北朝鮮の庶民の生活がこうも違うのかと、驚かされます。韓国側が作ったドラマですから、実際とは違うかもしれませんけど・・。

 

さて、次回は占領から講和について勉強します。

今回も最後まで見ていただき、ありがとうございました。

【使用した画像や動画はネットからお借りしました。ありがとうございました。】