真顔日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏し、太平洋戦争は終わりました。これからは、しばらくアメリカに占領された日本について学びます。戦後の日本の様子は、学校の勉強よりもテレビ画面でふれることが、多かったように思います。飛行機から降り立つマッカーサーの姿は、どなたも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

1945年8月30日、厚木飛行場(神奈川県)にマッカーサー元帥が降り立ちました。日本はポツダム宣言に基づいて、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・中国などの連合国に、占領されることになりました。占領とはどういうことなのか、日本はどんな形で占領されたのでしょう。

【バターン号で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー(パイプをくわえた人)】

 

アメリカの単独占領となる

敗戦したドイツは、米英仏ソ4カ国によって分割され、直接軍政の下に置かれた。日本も同じように分割占領する計画もあった。しかし、ソ連と対立し始めたアメリカが拒否したので、アメリカの単独占領となった。

1945年9月2日、横浜港アメリカ戦艦ミズーリ号にて、外務大臣の重光葵(しげみつまもる)が、降伏文書に調印した。連合国軍最高司令官の命令に従うこと、ポツダム宣言の内容を実行することを約束した。

(日本の無条件降伏、日本領土の範囲を限定、日本軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、軍国主義の除去と民主化、連合国による占領など)

 

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、『日本の行政・司法・立法は連合国軍最高司令官の権限のもとに行使され、公用語も英語とし、円の通貨を廃止する』と通告してきた。つまり日本政府は不要で、GHQが直接日本を統治するという。これは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言をほごにした通告だった。

重光葵は、マッカーサーを相手に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「ドイツは政府が壊滅したが、日本には政府が存在する」と抗議し、布告の即時取り下げを要求した。その結果、GHQの指令・勧告に基づき、日本政府が政治がを実行するという間接統治の方法がとられることになった。

 

ひらめき重光葵は、大分県出身です。明治20年(1887年)、大分県大野郡(現在豊後大野市)、大野郡長の次男として生まれ、重光本家の養子として杵築に移って中学を卒業。(私はきつき城下町資料館を訪れた時、重光葵について初めて知りました。)

重光はその後、東京帝国大学法科大学を経て明治44年(1911年)に外務省に入省、米国シアトル領事や中国公使を歴任しながら、一貫して外交により国際協調主義を貫きます。昭和7年(1932年)には爆弾テロに遭い、右足を切断する重傷を負いながら上海事変の停戦交渉を締結させました。

重光が歴史教科書に載っている有名な写真は、1945年9月2日に、日本政府の全権として太平洋戦争の降伏文書に署名をしたときのものです。

また、GHQの直接統治に反対して政策変更を促し間接統治としたことは、その後の日本の独立につなげた大きな行為でした。

東京裁判で、東條内閣、小磯内閣で外務大臣を務めたことを理由として、ソ連は重光葵をA級戦犯として起訴するよう強硬に出ました。当初GHQは重光を戦犯として起訴する意思はなかったようですが、結局、重光は逮捕起訴され、有罪・禁固7年の判決を受けました。4年7ヶ月で仮出所し、その後恩赦により刑の執行は終了しました。

 

戦争責任

GHQは、本部を東京の丸の内に置き(皇居の向かいの今も残る第一生命ビル)、日本の占領政策を進めた。

日本各地を占領する連合国の兵士は、40万人以上であり、東京都心にあった大きな建物はアメリカ軍が使用した。東京は全く様子が変わってしまった。東京の中心部は、道路標識も英語になり、外国のような風景になった。

 

第1回会見・・昭和天皇(44歳)・マッカーサー(65歳)】

天皇の戦争責任については、どうだったのだろう。

昭和天皇・マッカーサー会見は、駐日アメリカ大使館で、1945年9月から1951年4月まで、全11回行われた結局、天皇の退位もなく、天皇制も持続、天皇の戦争責任は問われなかった。アメリカにとって、占領政策を円滑に進めるために天皇の存在は欠かせないと判断したためだと言われている。

1946年(昭和21年)元旦、昭和天皇は「人間宣言」を行った。『天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念である』と述べ、自らの神性を否定した

 

一方、東條英機元総理大臣をはじめとする戦争指導者は、戦争犯罪容疑者として逮捕された。A級戦犯容疑での逮捕者は計126名。このうち5名は、出頭前、逮捕前に自殺。(元総理大臣近衛文麿は服毒自殺。東條英機は自殺を図ったが、一命を取り留めて起訴された)

 

東京裁判(極東国際軍事裁判)

軍事裁判とは、戦争時でも守らなければいけない国際的な法律を、犯したものを裁くための裁判である。この裁判で、東條英機はじめ被告人28名が「平和に対する罪」、つまり「侵略戦争」に加担したものとして起訴された。うち25名が判決を受けた。(裁判中、元外務大臣の松岡洋右と元海軍元帥の永野修身は病死。大川周明は精神異常で免訴)

1948年の判決で、東條英機元総理大臣、土肥原賢二、松井石根、武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎ら7人が絞首刑となった。首相や外相などを歴任した広田以外、全員陸軍の軍人だった。

※A級戦犯のほかに、戦闘中に捕虜や住民を虐待し、戦時国際法を犯したもの(B・C級戦犯)として、オランダ・イギリス以下の関係諸国の裁判所で5700人余りが起訴され、984人が死刑、475人が衆院刑の判決を受けた。

 

真顔テレビの番組(NHK映像の世紀バタフライエフェクトー映像記録、東京裁判)で東京裁判の様子を見ました。日本の軍人や政治家などA級戦犯28人が起訴されました。判事団はアメリカ、中国(中華民国)、イギリス、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、インド、フィリピンの11ヵ国で構成され、戦勝国が敗戦国を裁きました。法廷に立った為政者たちは、「無罪ですか、有罪ですか」と問われ、当然ながら皆「無罪」と主張しました。その後自分の身を守るため雄弁に語る者もいれば、ほとんど沈黙の者もいました。被告が別の被告を非難する場面もありました。

オーストラリア人のウエッブ裁判長が淡々と判決を読み上げ、それを聞く被告たちの表情が、映像と音声で記録されていました。多くの逮捕者の中から、この28人を「A級戦犯」とした基準は、いったい何だったのでしょう。

 

終盤近くの東條英機と米のキーマン主席検事のやり取りで、東条は弁護人の問いに対し、「日本臣民が陛下のご遺志に反して、かれこれするということあり得ぬことであります。いわんや高官においてもや・・」と発言した。昭和天皇の戦争責任に通じるこの発言は、重要な証言だった。これに慌てたのは米のキーマンで、天皇免責の方針を固めていたアメリカにとって、きわめて都合の悪い内容だった。

六日後キーマンの誘導により、東條に天皇の戦争責任について発言する機会が与えられた。「開戦は陛下の意志と反しましたかもしれませんが、私の進言、統帥部、その他の責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。・・・」天皇の意志と開戦は関係がない・・という趣旨の発言をしたのだった。

 

また、米弁護士ブレークニーは、広島への原爆投下に触れ、被告を弁護した。この時代、原爆に触れることは戦勝国といえどもタブーであった。そのタブーを果敢に破り、被告弁護を展開したアメリカ人がいたことに驚いた。しかし、この部分は、裁判速記録から削除されたそうだ。

 

この番組の終盤に、第4代西ドイツ首相のヴィリー・ブラントの終戦25周年での演説が流れた。

1969年10月、戦後忌まわしい過去の記憶が次第に薄れていくなかで、西ドイツ首相のヴィリー・ブラントが、国民に訴えている。

「国民は、自らの歴史を冷静に振り返る心構えが必要です。なぜなら過去を記憶する者だけが、現在を見極め未来を見直すことができるからです。歴史との対話は特に若い世代にとっても大切です。たとえ、生まれる前のことだったとしても、引き継いだ歴史から誰もが自由になれないのです。」

 

私も戦争を知りません。中・高で日本史を一応勉強しましたが、満州事変以後、日本の歩んできた歴史をほとんど理解していませんでした。日本はなぜ、満州国を建国して日中戦争、太平洋戦争に至ったのかを知ることの大切さを実感しました。未来の平和を守るためにも、明治以後に重点をおいた教育をしていただき、この時代の歴史と向き合う時間を若い世代に持ってもらいたいと思うのです。

 

 

今回も最後までつき合って読んで下さり、ありがとうございました。

次回は、日本国憲法の制定について勉強しましょう。

【使用した画像等は、ネットからお借りしました。ありがとうございました。】