真顔1944年7月、サイパン島をアメリカ軍に占領されると東條英機内閣は、総辞職。

アメリカとの戦いはますます劣勢になっていきました。

軍上層部は、連合軍には通常の攻撃では対抗できないと判断。特攻による体当たり

攻撃をするしかないと考えるようになり、神風特別攻撃隊(特攻隊)という部隊を

編成しました。出撃した特攻隊員の多くが20歳前後の若者でした。陸軍少年飛行兵

学校や予科練習生を経た少年、学徒出陣で動員された大学生もいました。

"お国のために"、戦場で命を散らすのは名誉なことだと教育されてきた若者たちで

したが、死を前にした苦悩は、はかり知れません。

決して生きて帰ることのできないこの戦い方は、多くの若者の命を奪いました。

【実家のすぐ近くに海軍航空隊があった。平和資料館には、特攻隊員の名前が残る芳名帳や

映画「永遠の0」の撮影用に製作されたゼロ戦の実物大模型などが展示されている。】 

 

レイテ島の戦いと硫黄島の戦いで敗北

レイテ島の戦い

1944年10月下旬、マッカーサー率いる部隊がフィリピン中央部のレイテ島に侵攻。

同時に起きたレイテ沖海戦で、初めて出撃した特攻隊は、護衛空母を撃沈する戦果

を挙げたが、結局日本海軍は、レイテ沖海戦で大きな損害を受け、連合艦隊は壊滅

した。

レイテ島の決戦では、現地住民を含め約10万の命が奪われた。日本兵は弾薬や

食料の補給もほとんどないままに、銃剣を手に敵に突入する無謀な戦法を命じられ

餓死や自害でも多くの人命が失われた。

1945年3月、アメリカ軍によって、マニラが占領された。

 

硫黄島の戦い

次に激戦となったのは、小笠原諸島の硫黄島だった。小笠原諸島で唯一飛行場が

建設可能な島であり、日米両軍にとって、戦略的にきわめて重要な地点であった。

【サイパン島と東京の通関にあたる硫黄島】

 

1945年2月19日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が開始された。上陸から約1か月後、

3月17日、栗林忠道陸軍中将を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊は激しく抵抗す

るも、アメリカ軍が同島をほぼ制圧。その後も残存日本兵の散発的な遊撃戦は続き、

3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅し、戦闘は終結した。

アメリカ軍は硫黄島を占領すると、すぐに航空基地を築き、日本全土への空襲を激化

させた。

 

日本本土への本格的な空襲

サイパン島がアメリカに占領されるまでは、日本本土への空襲は局地的なもので、

頻度も決して多くなかった。しかし、サイパン島を占領された後、サイパン島から

アメリカの最新爆撃機B-29が発進され、日本本土への空襲が本格化し、民間人犠牲

者の数が急増した。特に、

1945年3月10日未明に実施された東京への空襲は、約300機のB29爆撃機が東京

の下町に約1700トンの焼夷弾を落とし、日本の家屋を焼き尽くしました。

被災した家は26万戸以上、約8万人の人々が焼死したと言われている。(東京大空襲

 

アメリカ軍の沖縄本島上陸

1945年4月1日、アメリカ軍5万人が沖縄本島に上陸。

小磯内閣が退陣して戦争終結に向けて、鈴木貫太郎内閣が発足した日、沖縄への出撃

途中だった戦艦大和は、アメリカ軍の攻撃をうけ、撃沈された。

沖縄戦では、海上補給路をアメリカ艦隊にたたれたため、島民を巻き込んだ持久戦と

なった。兵力不足を補うために、召集が行われ、男子中学生も鉄血勤皇隊として戦闘

に参加し、女学生までもが看護部隊ひめゆり隊に動員された。

上陸したアメリカ軍は、沖縄守備隊のたてこもる自然壕内に手榴弾を投げ込み、火災

放射器で焼き尽くした。

 

この戦いで日本の戦死者は、18万8136人。多くの非戦闘員が犠牲となり、女性住民

を中心とした多数の集団自決が発生した。「虜囚」となることを住民に許さない強制

死でもあった。沖縄戦が終焉を迎えたのは、

1945年6月22日。アメリカ軍の司令官サイモン・B・バックナーが「沖縄作戦終了」

を宣言した瞬間だった。

 

 

 

 

ちょっと不満アジア太平洋戦争では、日本政府は『大東亜共栄圏』構想を唱え、欧米の植民地

支配に代わって、共存共栄のアジア地域を樹立すると称しました。しかし、それは

戦争に必要な資源確保をめざしたアジア侵略政策を正当化するためのスローガンに

すぎませんでした。いつの戦争も自国に都合のよい理由をつけています。

『大東亜共栄圏』の美名とは裏腹に、中国や朝鮮、東南アジア、太平洋諸島の国々

では、戦闘や大規模な住民殺害や虐殺、強制労働、慰安所の開設などで、多くの

人々が、犠牲になっていきました。

 

4月9日の新聞にこうした記事の掲載がありました。陸上自衛隊が、活動内容など

を紹介する公式X(旧ツイッター)で『大東亜戦争』という言葉を使って投稿して

いたことがわかり、のちに削除したという記事でした。

『大東亜戦争』は日本大百科全書によると「太平洋戦争に対する当時の日本指導者

による表現」とされています。真珠湾攻撃の2日後に大本営政府連絡会議で決定され

名付けられました。侵略戦争を肯定する意味合いを持つので、戦後は一般的に『太平

洋戦争』という名称を使っています。歴史を勉強して、初めて知ったことでした。

 

今回も最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

次回は、太平洋戦争終結までを勉強します。

【使った画像は、ネットや新聞からお借りしました。ありがとうございました。】