真顔1941年12月8日の開戦から半年で、東南アジアから南太平洋までの広大な地域を

日本は占領しました。その目標を「欧米列強の支配からアジアを解放し、『大東亜共

圏』を建設することである」としました。戦争の初期には、日本軍は欧米諸国の植

民地支配からの解放軍として評価され、現地でしばしば歓迎を受けました。

日本でも、アメリカなどの経済制裁に反感を持っていた人々は、日本軍の連戦連勝に

熱狂しました。

 

1942年4月、アメリカ軍機が日本に飛来し、東京・名古屋などがはじめて空襲を受け

ました。アメリカの航空母艦が本土に近づき、そこから飛び立った攻撃機でした。

そこで、山本五十六司令官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となって

いたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカの航空母艦の早期撃滅をめ

ざす作戦が立案されました。

日本の戦力はアメリカにまさっていましたが、長期戦になると日本に勝ち目はない。

この戦いでアメリカをたたき、和平交渉をして戦争を早く切り上げたかったのです。

 

ミッドウェー海戦の敗北

 

アメリカ軍は、日本の連合艦隊の作戦を伝える暗号文の解読に成功し、次の日本軍

の攻撃目標がミッドウェー島であることを突き止めた。そこで海兵隊や航空機を増

員し、ミッドウェー島の守備力を高めるとともに3隻の空母を中心とする艦隊を派遣

した。

一方日本は、1942年5月27日、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」4隻の空母を主力

とする艦隊がミッドウェー島へ向かって出港した。

6月5日、日本の4隻の空母から第一次攻撃隊が発進、ミッドウェー島へ空襲を開始。

それに対し、アメリカ軍はハワイから空母部隊を出撃させ迎撃を行った。航空兵力で

100機以上の劣勢を強いられた日本の空母部隊は、攻撃準備中にアメリカ軍の急降下

爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。

結果として日本側は航空母艦4隻と重巡洋艦1隻を撃沈され、艦載機300機を全て失い

3000人以上が戦死した。勝利したアメリカ軍も空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され、

航空機約150機を失った。

 

あんぐり大本営発表「東太平洋にて作戦中の帝国海軍部隊は、6月5日ミッドウェーに

対し強烈なる強襲をおこなうとともに米国艦隊に猛攻を加え 甚大なる損害をあた

えたり。わがほう損害、航空母艦1隻喪失、巡洋艦1隻大破、飛行機35機喪失・・」

(大本営とは、明治時代~第二次世界大戦が終わるまで、陸海軍を指揮した最高司令部のこと)

大本営発表は、終戦まで846回。ミッドウェー海戦では、嘘の発表をしました。国民

の戦う気持ちを高めるために、不利な情報を隠したり、損害を小さく見せたのです。


ミッドウェー海戦は、ここまで破竹の勢いで進撃してきた日本海軍にとって、敗北へ

の道を歩む転換点になる戦いだった。

この海戦以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、激戦が繰り広

げられることになる。

 

戦局の悪化

ソロモン諸島・・海軍機動部隊の主力を失った日本は劣勢となり、アメリカ軍の反撃

が始まると太平洋での主導権を失っていった。半年にわたるガダルカナル島の攻防戦

で日本の陸軍と海軍は大きな打撃を受け、1943年2月ガダルカナル島から撤退した。

山本五十六長官は、最前線の兵士を激励するため向かったブーゲンビル島の上空で、

乗っていた飛行機が撃墜され戦死。

【ソロモン諸島】

真顔国は戦争に関する情報を統制し、勝利を発表し続けました。それに反する意見を

言うと逮捕され、言論や思想が厳しく取り締まられました。また英語、ジャズなど

の音楽などアメリカやイギリスの文化を排除する動きが広がりました。

 

アリューシャン列島アッツ島・・その後も日本軍の負け戦が続いた。

1943年5月、北太平洋の拠点アッツ島の日本軍が玉砕した。

(玉砕とは、玉が美しく砕けるように名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと)

 

インド北東部インパール作戦・・ビルマ戦線において、終戦間近の1944年の3月から

7月初旬まで、陸軍によりインパール作戦が継続された。

イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した。イギリスの

植民地インドに進攻することによって、独立運動を誘発しイギリスの植民地支配体制

に打撃を与え、インド領内に拠点を確保することを目的とした計画である。

この作戦は、牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の強硬な主張により決行された作戦

として知られる。4月にはインパール付近まで進軍することになったが、航空兵力に

勝るイギリス・インドの攻撃と補給路が断たれたため、結果的に7万人以上の死傷者

を出したことから、現在では「無謀な作戦」の代名詞として「史上最悪の作戦」とも

言われる。

 

トラック島~サイパン島・・1944年2月、絶対国防圏の重要防衛拠点だったトラック

島が大空襲を受けて防衛機能を喪失。アメリカの圧倒的な物量や最新兵器の前に、

日本は太刀打ちすることができなかった。

連合軍は、太平洋を島伝いにしてサイパン島のあるマリアナ諸島に近づいていった。

1944年6月、アメリカ軍は、マリアナ諸島にある日本の飛行基地への攻撃を開始。

この攻撃によって、日本の航空部隊は壊滅状態となる。さらにサイパン島への上陸に

成功したアメリカ軍は、大量の軍事物資の陸揚げにも成功した。

日本軍は、戦車による夜襲攻撃を仕掛けたが、最新兵器バズーカ砲の的になり、アメ

リカ軍は、サイパン島の内部へと侵攻開始し、空港がアメリカの手に落ちる。

次はマリアナ諸島の周辺で海上戦が始まり、日本は、マリアナ沖海戦に大敗。

日本の被害は甚大じんだいで、空母3隻を失ったほか、航空機450機以上が撃墜される大損害

となる。日本は、サイパン島奪還を断念することを決定した。

一方で、サイパン島に残された日本兵は、体制を立て直し、アメリカへの反撃を試み

るが、失敗。日本は多くの死傷者を出す。さらに、サイパン島の市街地でも激戦が繰

り広げられたが、度重なる敗北で残された兵力が残りわずかになった。

7月、南雲忠一中将は兵士に対して玉砕覚悟の突撃攻撃を命じ、多くの日本兵が命を

落とし、全滅した。

サイパン島の戦いは、日本の民間人が住む初めての陸上戦で、民間人も巻き込んだ

戦いとなり、マッピ岬では兵士だけではなく、女子どもや老人たちまでも『生きて

虜囚の辱を受けず』と崖から飛び降り命を断ち、膨大な数の死者を出し悲劇の戦場

と化した。(飛び降りて自決した数は約1万とも言われている。)

【サイパン島の北端の「バンザイクリフ(万歳の崖)」日本統治時代は「マッピ岬」と呼ばれていた。】

 

ちょっと不満サイパン島で民間人を含む300人の集団を指揮した大場栄大尉は、絶望的な状況

の中でも、ジャングルやタッポチョ山で1年以上に渡って、援軍が来るのを信じて、

1945年12月に降伏するまで抵抗を続けました。兵士と民間人の命を守りぬいた大場

大尉は、アメリカ軍から畏敬の念を込めて「フォックス」と呼ばれました。

その活躍は「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~」で映画化されています。

 

サイパン島が陥落すれば、日本への空襲が本格化することは政府も予想をしていた。

サイパン島陥落後、政府内では空襲への対応が議論となり、「アメリカと講和すべき

では?」という案も浮上し始める。しかし、当時首相だった東條英機は内閣の意見を

まとめきることができず、1944年7月、サイパン島陥落の責任を取って内閣を解散。

次の首相には、陸軍出身の小磯国昭が選ばれるが、小磯もまた混乱する政府をまとめ

上げることができず、日本の政治は敗戦するまで迷走を続けることになった。

 

国民生活の崩壊

文化も戦争利用・・戦争の激しさが増し、言論機関・出版物・映画・演劇などに

対する統制が強化された。そんな中、火野葦兵の『麦と兵隊』が評判を得た。

『麦と兵隊』は、日中戦争の徐州作戦に参戦した従軍日記で、死の恐怖感と戦いな

がら生きる姿を描き、兵士が戦場から送ったという臨場感と生々しさが反響をよび

当時140万部という大ベストセラーとなった。英訳されたこの本を読んだパール・

バックも絶賛したという。当時は、戦争や戦場にかかる表現に関して、かなり厳格

な検閲をしていた。軍や政府が認めた内容の域から出ないよう、作者の知らぬとこ

ろで表現が調整されたり、削除訂正されたところもあった。火野は二七箇所の削除

訂正がなされたとしている。戦争遂行に利用できるような作品にして出版された。

南京作戦に参加した兵士に取材して著した石川達三の小説『生きている兵隊』は、

4分の1が伏字削除されたにもかかわらず、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な

作品」即日禁止処分を受けたという。執筆者石川、編集者、発行者の3者は、起訴

され、石川は禁固4か月、執行猶予3年の判決を受けた。

芸術の分野でも国策に沿って、戦争に協力させられた。芸術家たちは、従軍作家

・画家として動員され、多くの戦争画も描かされた。

 

生産の低下・・開戦後、政府は各種民間工場を軍需工場に転換し、軍需品の生産増加

を図ったが、戦局の悪化で資材が不足し、生産は急速に低下していた。

また兵器の元となる金属類は、ほとんど軍事用に差し出した。(供出)

教室のストーブ・寺の鐘・仏像・仏具、家庭の鍋・かまも供出された。

 

学徒出陣・・1943年、兵力不足のため、徴兵猶予されていた20歳以上の大学生

(理科系・教員養成学校の学生以外の大学生)も召集された。

【出陣学徒壮行会(1943年10月21日)】

また、軍隊に入る年齢も広げられ、壮年の人も戦争に行くようになった。

 

労働力の不足・・中学校や女学校の生徒の勤労動員が始まり、独身女性も女子挺身隊

として、軍需工場に動員された。さらに日本が統治していた朝鮮や台湾でも、徴兵が

行われた。また強制的に日本に連行された多くの人々が、労働環境の悪い鉱山や炭坑

などで働かされた。慰安婦として各地の軍に従った女性もあった。

タイヤビルマを結ぶ鉄道建設現場では、占領地の捕虜や住民が動員され働かされた。

 

配給制・・1939年に配給制度が始まり、特に42年10月からは食料品・衣料その他

の生活必需品全てが町内会・隣組などを通じて配給されるようになった。それも戦局

の悪化とともに少なくなり、物資や食料難は、深刻になっていった。

米などの代用食としていろいろなものが食べられた。すいとんは、小麦粉をといて丸

め茹でたもの。具は菜っ葉が1枚あればいいほう。余裕があった頃は小麦粉を米の代

わりにしていたが、戦争が長引くと、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃが代わりに

食べられた。肉や魚も手に入らず、動物性のタンパク質を補うために農村部では昆虫

のさなぎなども食べられた。

学童疎開・・空襲に備えて、防空壕を作り、サイパン島がアメリカ軍に占領されると

東京などの都市の小学生(3~6年生)を、強制的に地方へ避難させた。

沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、1944年8月22日、米軍

潜水艦に撃沈され、乗船者約1800人のうち、児童779人を含む1476人が犠牲となる

事件も発生した。

こうして、国民生活は、みるみるうちに崩壊していったのである。


真顔澤地久枝さんは、ミッドウェー海戦で命を落とした日米双方の全戦没者を特定す

るという前例のない作業に取り組み、著書「滄海よ、眠れ」を、完成させました。

「私が突き止めたかったのは“命の重さ”だった」と、日本とアメリカで大規模な調査

を行ない、3418人(日本3056人、アメリカ362人)の詳細を明らかにしました。

指揮官のずさんな命令で奪われた命、15歳で志願して戦場に向かった命もありまし

た。海軍通信学校では、開戦前から、幅広い周波数の音を聞き取る若い聴力が必要と

15歳から志願兵を募っていたのです。10代で戦死した志願兵はアメリカ48人、日本

は290人もいました。澤地さんは、著書の中で「今、戦争など知らないと考え、そう

言い切る若者たちに、自分が生まれてきた時間と、戦死した少年たちが生きてきた

時間を重ねて考えてほしいと思うばかりである」「かつての日本の社会は、個人の

命の重さなど、問題にしなかった。命は軽かった。」と記しています。

玉砕覚悟の突撃攻撃、『生きて虜囚の辱を受けず』と自決した多くの人々。まるで

美談のように語られましたが、誰がどこでどんなふうに死んでいったのかもわから

ず、そこに命の重さは存在しませんでした。

 

今回は長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回は、とうとう、敗戦に至ります。

【使用した画像などは、ネットからお借りました。ありがとうございます。】