真顔前回は1937年7月、日本軍と中国軍が衝突した盧溝橋事件をきっかけに始まった

日中戦争を学びました。

日本有利に進んでいた日中戦争は、1937年も後半になってくると戦線が膠着してし

まいます。中国はイギリスやフランスなどの国々から武器などの支援を受け、中国軍

は強化され、日本にとって中国攻略の大きな問題でした。

 

国民の暮らし

日中戦争がはじまると、新聞や雑誌の記事は、国民の戦意を高めるものばかりになっ

た。政府は戦争に関する記事の検閲や、さらに内閣情報部を設置して、言論統制をは

じめた。

国防献金や慰問袋(戦地の兵士などを慰めるために、日用品や手紙、千人針などを入

れて送った袋)など、ほとんどの国民が様々な形で戦争に協力した。

さらに近衛文麿内閣は、国民全員を戦争に協力させるために、国民精神総動員運動を

はじめ、戦争が長期化すると、ますます統制を強めていった。

 

1938年4月国家総動員法の制定

政府は勅令によって、経済と国民生活の全般にわたり、議会の承認なしで自由に動か

せるようになった。

1939年には国家総動員法に基づく国民徴用令によって、一般国民が軍需産業に動員さ

れるようになった。

軍需物資を優先し、生活必需品は品不足で代用品でまかなわれた。

軍隊に必要な貴重なガソリンのかわりに、木炭を使った木炭車

綿や羊毛は軍隊が使い、かわりに国民の衣服には、スフ(木材パルクを原料にする

人造繊維、レーヨン)が使われました。

【木炭バスは力が弱いので、坂道などでは、客がおりて後ろをおすこともあった】

 

第二次世界大戦の始まり

第一次世界大戦で敗北したドイツ

ドイツは共和国として再出発した。ヴェルサイユ条約がドイツに課した賠償の負担は

その後の経済や政治に悪影響を与えた。1920年代中頃からは相対的な安定期を迎え、

国際社会にも復帰しつつあった。ソビエト連邦とは、外交および秘密裏の軍事協力関

係を構築した。

1930年代初頭、アメリカがきっかけで起こった世界恐慌がドイツにも波及した。

経済破綻を背景に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭し、アドルフ・ヒト

ラーが党首となる。

1933年、ヒトラーが首相に任命されると、ナチ党一党独裁体制を築き上げた。

1935年、ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄する宣言をする。

次第に英仏との緊張関係が高まっていった。

 

第二次世界大戦の始まり

1939年9月、ヒトラー率いるドイツが、経済的要所のポーランドに侵攻する。

これに対し、ポーランドと安全保障条約を結んでいたイギリス、フランスがドイツに

宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまった。

真顔ドイツは占領後もなお抵抗するポーランド人や、ポーランドに住むユダヤ人に

迫害を加え、600万人が虐殺され、そのうち300万人はアウシュヴィッツなどの

強制収容所に送られたと言われています。

 

日本の対応

日中戦争に苦しんでいた日本は、ヨーロッパの戦争には加わらない方針だった。

1940年1月、米内光政(海軍大将)が総理大臣に就任。

連合艦隊司令長官の山本五十六は、アメリカの経済規模は日本の5倍、石油の8割を

アメリカから輸入している日本はアメリカと戦争しても勝てないから、アメリカ・

イギリスと協調するよう進言。

【米内光正と山本五十六(1930年代)

山本は大柄で重厚な米内とは容姿・性格双方で対照的だったが、親友だったようである。

1940年3月、日中戦争終結の見通しが得られない日本政府は、南京に当時国民党

No.2の大物であった汪兆銘(おうちょうめい)を主席とする新国民政府を樹立。

しかし、汪政権はあまりに弱体であったため、この政権によって日中戦争を終結

させることはできなかった。(汪兆銘政権は、~1945年8月16日にかけて存在した中華民

国の国民政府。日本軍占領地の南京に成立した政権であり、日本の傀儡政権。)

南京から重慶に移った国民党政府は、日本の中国侵略に抗議していたアメリカを

はじめイギリスなどから物資輸送路である援蒋ルートを通じて援助を受け、徹底

抗戦を続け、日中戦争は長期化していた。

 

その頃ドイツ軍は、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーなどに侵攻し、

1940年6月フランスも占領した。イタリアと手を組んだドイツは、圧倒的優勢に

なり、イギリスだけが抵抗している状態になる。

米内総理がドイツとの同盟を拒んでいることに反発した陸軍は、陸軍大臣が辞表を

だし、米内内閣は総辞職となった。

 

1940年7月、第2次近衛文麿内閣が成立。

ドイツと結べばオランダ、フランス、イギリスが持っている東南アジアの植民地に

進出できる、日中戦争に必要な石油やゴムなどの資源が手に入る、南方を抑えると

中国国民政府にイギリスやアメリカが援助を行なうための輸送路(援蒋ルート)を

断ち切ることができ、日中戦争解決につながる。東アジア、東南アジアを欧米の

植民地支配から解放し、日本を中心とする大東亜共栄圏を建設する意義もある。

第2次近衛内閣では

「ドイツ、イタリア、ソ連との連携強化」

「欧州大戦不介入方針からの転換」

「積極的な南方への進出」という方針が出された。

 

1940年9月、日本はこれまでの日独伊三国防共協定をさらに進め、アメリカを仮想

敵国とする日独伊三国同盟を結び、南方進出を開始。

さらに1941年4月には、北方の安全を守るため、日ソ中立条約を結ぶ。

9月、日本軍はフランス領インドシナ南部(ベトナム)に軍隊を送った。

 

大政翼賛会・・国民一丸となって

1940年10月、大政翼賛会を作り、国民生活全てにわたって統制する体制を整えた。

全ての政党や労働組合は解散して、大政翼賛会のもと結集することになり、実質的

な独裁政治に突入していく。

近所の10件前後が集まって作られた隣組は、政府の命令がすみずみまで行き届くよ

うに、戦争総動員体制を具体化したものの一つである。地域により、隣保

最寄などの呼び方がある。大政翼賛会の地域組織として活動し、思想統制や住民同

士の監視の役目を担うこととなった。

(戦後の昭和22年に連合国軍により、行政組織としての隣組は廃止されたが、今もなお、

隣組や町内会は多くが残り、回覧板などの活動形式を色濃く残している。)

『ほしがりません勝つまでは、ぜいたくは敵だ、足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』など

のスローガンのもと、国民の消費の切りつめが強いられた。生活必需品の統制はます

ます厳しくなり、1940年、砂糖やマッチの切符制、1941年には米が配給制になり、

衣服にも切符製がしかれるなど国民生活にも大きな犠牲が要求された。

当時の召集令状は赤紙と呼ばれ、届いた人は兵士として戦場に送られた。

(国民徴用制に基づき、軍需産業で働くことを命じる白紙もあった。紙の色からそう

呼ばれた。)

 

ひらめき幻の東京オリンピックがあったことをごぞんじですか?

【1940年東京オリンピック】

実は、1940年に東京でオリンピックが開催されるはずだったのです。ところが、

盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発し、国際的な批判が高まり、反対する声が

世界中から上がりました。国内でも「オリンピック競技場を作るべきか駆逐艦一隻

を作るべきか」で、オリンピック反対論が次第に優勢になっていきました。国内外

の反対を受けて1938年、日本政府は開催権を返上。

結局、その後第二次世界大戦が始まったため1940年と1944年のオリンピッ

クは中止となったそうです。

 

いよいよ次回は、アジア・太平洋戦争について勉強します。

日本でよく使われる「太平洋戦争」という呼び方があります。「第二次世界大戦」と

どう違うのかよくわかりませんでした。今回の学習で「太平洋戦争」も「第二次世界

大戦」の一局面であることを知りました。

その名の通り、太平洋を中心にした日本と連合国軍との戦いを指します。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

【使用した画像などは、全てネットからお借りしました。ありがとうございました。】