2月6日、世界的に有名で日本の誇る指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。世界の名指揮者に学び、自らもボストン交響楽団を率いて、名実ともに世界のマエストロとなっていった小澤征爾さん。私は楽器を演奏できるわけでもなく、クラッシックには縁の薄い生活をしてきたので、小澤さんのことは、テレビや雑誌で時折お顔を拝見するくらいでした。でも、小澤さんの征爾という名前が、満州国建国にかかわった関東軍の中心人物である板垣征四郎の『征』と、石原莞爾の『爾』をもらったと知り、少し複雑な気持ちになりました。親御さんはどうしてその名前をつけたのか、とても知りたくなりました。そんな時、テレビの『アナザーストーリーズ運命の分岐点』という番組で、逝去された小澤さんの追悼番組がありました。2022年12月16日放送「小澤征爾悲願のタクト~北京に流れたブラームス」の再放送でした。その番組をみることができて、私の疑問はすぐに晴れました。

 

「小澤征爾悲願のタクト~北京に流れたブラームス」番組から~

ー1935年、小澤征爾は、満州国の奉天で生まれた。歯科医をしていた父開作は、五族協和のスローガンを信じて、満州国に協力。関東軍の中心人物の二人は開作の同志だった。征爾の名は、満州国建国を主導した板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ取ってつけた。1歳の時北京に引っ越し、5歳の時帰国するまで満州で過ごした。

 

生まれ故郷であり、幼少期を過ごした中国でタクトを振る、それが征爾の悲願だった。

中国と日本の国交が回復するまで、訪中はできなかった(1972年に日中国交が正常化)

文化大革命(1966年~1976年)が終わって間もない1976年、小澤は中国を訪れる。この時、中国の中央楽団は崩壊状態で、楽器も譜面も失われていた。中央楽団は、中国初のオーケストラとして、1956年に設立されたがその10年後、文化大革命がおこる。当時の指導者毛沢東とその妻江青ら4人組が主導したのは、社会主義変革運動。その実態は、権力闘争とブルジョアとみなされた文化や思想の抑圧だった。西洋のクラッシック音楽もやり玉にあげられ、徹底的に弾圧された。毛沢東の死とともに革命が終わり、楽団が再度成立から半年後、小澤がやって来たのだった。

 

1978年6月14日、小澤が生涯忘れられないコンサートが、2年の準備期間を経て実現した。歴史的なコンサートが行われた日になった。ようやく指揮台に立てたリハーサルの初日、小澤の瞼から涙が流れた。

小澤「あんまりぼくは、うれしいから・・」と。

当時の楽団員は、小澤の指導について、こう述べる。

「俺の指揮に従えというような偉そうなところは全くなく、全身全霊で指導してくれた。私たちに対して常に優しく、まるで家族のように接してくれました。」「体全体を使った身ぶり手ぶり、表情も豊かでした。話してくれる内容も具体的なイメージが湧いてくる、これまでの指揮者とは全く違いました」

 

 

 

 

 

楽団の皆さんのお顔は、真剣で必死な中でも和やかで、笑顔が覗いていた。

 

中国で一緒に音楽ができる喜び

1959年音楽大学を卒業したばかりの小澤は、クラッシックの本場ヨーロッパへ23才で単身、貨物船で武者修行の旅に出る。ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。さらにフランス、ドイツ、アメリカで修業を重ね、マエストロの階段を駆け上がった。しかし、その裏には偏見の壁という苦闘もあった。

「日本人なのに、どうしてバッハがわかるのか」

「日本人のくせに、ベートーベンの指揮できるのか」

そんな時、自分は中国でうまれたが、中国の音楽家の皆さんはどんなふうに音楽をしているのかといつも考えていたという。征爾の弟は、「中国公演で一緒に音楽ができたことは、征爾にとっては何よりもうれしいことだったのではないでしょうか」と話す。

中国に爽やかな息吹を運び、中国の音楽界へ与えた影響はとても大きいものだった。

久しぶりに流れる西洋音楽に観客は熱狂し、会場は沸きに沸いた。

 

父開作の思いと征爾の秘めた思いとは

その客席には、小澤の母と兄弟の姿もあった。征爾は音楽を通して父を中国に連れて行くことを願っていたが、開作は1970年、71才で日中国交回復を見ることなく、中国に行きたい夢を果たせぬまま亡くなった。

開作は、満州建国の『五族協和』の理念に共鳴し、軍への協力をいとわなかったが、その後日中戦争で、日本軍は多くの中国人を犠牲にしていった。理想とは裏腹の現実に疑問を抱く。国や文族を超えて交友の広かった開作。日本人と中国人は手を取り合うべきだと訴えた。日中戦争が激化した1941年征爾5歳の時、家族を日本に帰し、開作自身は中国との新たな関係を探るため中国に残った。最後まで真の友好を訴え努力したが、やがて軍部と決別し、帰国。それからは再び中国を訪れることはできなかったが、開作の中国への思いは生涯変わらなったそうだ。

 

中国公演の譜面台に置かれていたのは亡き父開作の写真。征爾には、秘めていた中国への思いがあった。

征爾は、北京についてすぐの歓迎会で「ぼくはこの旅は、中国へのお詫びの旅だと思っています。とっても悪いことをしてきたお詫びです。」と開口一番に言った。

すると、中国の理事長の方が「私たちはそうは思わない。あれは日本の軍国政権がやったことで、日本の人民がやったことだとは思ってない。日本の軍国主義と国民は分けて考えています」とはっきり言ってくれた。

「征爾は子どもだったけれど、日本人が中国人を苦しめたことを知っていた。音楽を通して贖罪をする気持ちを持っていた。父親開作の思いは、小澤家の伝統的な考え方だった」と征爾の兄が語る。

父開作と生まれ故郷への思いを込めて一心不乱にタクトを振った小澤征爾。北京でのコンサートは三日間続き、多くの聴衆を集めた。

 

音楽は国境を超える

この公演を聴いていた聴衆の中に、その後世界的に有名になる指揮者タン・ムハイがいた。小澤に憧れ、世界で活躍することを決意し、小澤の後をたどっているかのように多くの困難を乗り越えて夢を実現。

中国人の指揮者として唯一グラミー賞を受賞する。

タンだけではなく、中国の民族楽器二胡奏者のジャン・ジェンホフもその一人。音楽は国境を超えた。

この番組は、最後に征爾さんの番組に向けたメッセージで締めくくっている。

「北京の音楽家たちと、ブラームスを演奏できた事は、ぼくの人生の宝物のひとつです。あらためて音楽は素晴らしいなと思っています」

 

PS:

私が番組を通して知ったことは、小澤さんの人生のほんの一部かもしれませんが、ご家族の中国に対する思いや小澤さんの温かいお人柄にふれることができて、本当によかったと思います。心から感謝いたします。

義母を介護していた時、義父母の家のアルバムをめくっていたら、義父母と小澤征爾さんが一緒に写っている写真を見つけました。旅行先でたまたま出会ったのでしょうか・・義父母は、小澤さんが満州の生まれであったことを知っていたのかわかりませんが、出会った時のことを聞いてみたかったなぁと思うのです。