ひらめき1936年(昭和11)11月、17年の歳月をかけて国会議事堂が完成しました。

118の応募作から選ばれたデザインをもとに作られ、中央塔をはさんで左右対称で、

向かって右側が衆議院、左側が貴族院(参議院)です。

今から、87年前のことです。

    

【竣工式 1936年11月7日】

 

同じ年の1936年2月26日に起きた二・二六事件で閣僚を失った岡田内閣は総辞職、

広田弘毅外務大臣が総理大臣を引き継ぎました。政治的発言力を強めた軍部の要求

を受け入れ、廃止されていた軍部現役武官制を復活しました。

ワシントン・ロンドン両条約が失効し、再び軍備拡大競争の時代に入りました。

満州の権益を守るため対ソ連に対抗できる軍備に加え、南進政策を強化し対米戦を

を想定して米海軍に対抗できるように、軍事予算を増やしました。

国の支出の約3割以上が軍事費にあてられるようになりました。

 

日独伊防共協定

1936年11月、国際的に孤立した日本は、ソ連をけん制するために、日独防共協定

結んでナチス=ドイツと提携した。翌年、イタリアもこれに加わり、日独伊防共協定

が結ばれた。この頃、ドイツやイタリアでは、独裁政権が成立していた。

世界恐慌以来、世界中が経済で苦しんでいた中で、大きく発展したのが、ドイツ、

イタリア、ソ連だった。これらの国に共通しているのは、一つの政党が強大な権力を

持って、独裁的な政治体制を敷き、経済面では、資本主義にはなかった新しい制度を

加えているという点だった。日本でもそのような政治をめざそうとする動きが出てき

たが、ナチスのような政党は生まれなかった。しかし、軍部寄りの独裁的な政権に近

づいていったのは確かで、その結果、日独伊の枢軸が形成されていった。

 

(広田内閣のあとの林銑十郎内閣は4ヵ月で総辞職。)

1937年(昭和12)6月、近衛文麿が総理大臣となった。

47才と若く、名門華族出身、国民的人気があり、期待は高まった。

近󠄁衞 文󠄁麿󠄁

 

盧溝橋事件から日中戦争へ

当時、中国では中国大陸を完全に支配した蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる中国共

産党の2党が戦争を繰り返していた(国共内戦

満州事変後も蒋介石は、『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』と満州国

の存在をひとまずは黙認していた。

  

【蒋介石と毛沢東】

ところが、一つの重大な転機が訪れる。

反日感情の強い張学良(関東軍に爆殺された張作霖の子)が、蒋介石に対して中国共

産党と停戦し、武装抗日を訴えた。この訴えが退けられると、1936年12月12日張学

良は、蒋介石のいるホテルを襲撃し、蒋介石を監禁する西安事件が起きる。中国民衆

の要求や共産党の周恩来の調停もあり、蒋介石は、日本に抵抗するため中国共産党と

の戦いを停戦することを受け入れた。国民党はあくまで停戦をしただけであって、

積極的に中国共産党と協力するつもりはなかったが、両者を結びつける事件が起こる。

 

1937年7月、北京郊外の盧溝橋で、日本軍と中国軍が武力衝突した盧溝橋事件が起き

る。北京近くの盧溝橋という橋の近くで行われていた日本軍の夜間訓練中に銃声が響

き、中国軍の発砲をきっかけに両軍が衝突、戦闘が起こった。戦闘そのものは数日で

終わり、両軍の間で停戦協定が締結した。

ところが、日本政府はこれを口実に鉄や石炭など資源が豊富な華北を国民党政府から

分離させようとする華北分離工作を行う。7月下旬、北京・天津周辺で一斉に総攻撃

を開始・占領し、日本の中国侵略はいよいよ本格化する。

当初、近衛文麿首相は不拡大方針を指示したが、軍部が戦線を広げるにつれて追認し

て、軍隊を派遣した。

蒋介石率いる国民党政府は、日本の軍隊派遣を聞き、本格的に日本と戦うことを決意

する。この戦争を機に、中国共産党との協力に否定的だった蒋介石もついに協力関係

を結ぶことを決意。両者は協力関係を結び、1937年9月「抗日民族統一戦線」が結成

される。日本と中国の全面戦争が始まり、日本は不拡大方針を変更した。

 

泥沼の日中戦争

こうして日本と中国は7年にも渡る泥沼の日中戦争へと突き進んでいく。

 

日本軍はまず中国の北部である北京などの地域を制圧し、南下を始める。

一方で日本は上海にぞくぞくと軍隊を投入した。

1937年11月、日本軍は上海を占領。

12月には、国民党政府の首都南京を総攻撃し占領。この際、日本軍が多数の民間人

や捕虜を大虐殺する南京事件をおこした。ソ連は中国の抗戦を支持し、欧米諸国も

日本の行動を非難した。

日本軍はドイツを仲介として、中国と和平交渉を進めていたが、交渉は難航し国民党

政府からなかなか返事がこなかった。

1938年1月、首相の近衛文麿は『国民政府ヲ対手トセズ』と第一次近衛声明を発表し

た。今の国民党政府を交渉の相手とせず、新しい政府ができることを期待するとし、

講和は打ち切りとなってしまう。さらに同年、戦争目的を日・満・華3国連帯により

東亜新秩序建設であるとする声明を出す。日本は、戦争終結の見通しが得られないま

ま、戦火はますます拡大していく。国民党政府は首都を奥地の重慶へ移し、米・英の

援助を受けて、長期徹底抗戦体制をとり、泥沼のような戦争になっていった。

 

真顔古代から日本は中国から、多くの文化や政治・経済などを取り入れ、恩恵を受け

てきました。明治以後、近代化が進み、欧米諸国に並ぶ発展を遂げた日本が、謀略を

巡らし、中国を侵略していく全面戦争を仕掛けるとは・・南京事件がこういういきさ

つで起こったことをはじめて知りました。戦争がなければ失われるはずもなかった多

くの人の命が、いとも簡単に、奪われていきました。

野球選手の沢村栄治さんもその中のお一人でした。私はプロ野球で沢村賞があること

で、沢村栄治という名前だけは知っていました。

 

沢村さんは、終戦前の日本野球を代表する投手でした。

1933年と34年に中等野球大会で活躍した沢村さんは、1934年に京都商業学校を中退

し、11月に開かれた日米野球に出場すると、当時誰よりも早い球を投げたそうです。

時速160㌔に達していたという研究もあります。

【沢村の豪快な足上げフォーム』

しかし、徴兵によって、1938年10月に入営し、軽機関銃射手として日中戦争に出征

しました。中国戦線では、連隊の宣伝材料として手榴弾投げ大会に頻繁に駆り出され

重い手榴弾を多投させられ、投手にとって大事な右肩を痛めてしまい、また戦闘では

左手に貫通銃創を負い、マラリアにも感染しました。

1940年4月に除隊となり、巨人に復帰します。6月の復帰後初登板を完投勝利で飾る

と、4回目の登板では、自身3度目のノーヒットノーランを達成しますが、兵役で右

肩を痛めたことで速球が投げられなくなってしまいます。

兵役を通じて往年の力は衰え戦力にはならず、巨人から解雇されます。

1944年10月召集を受け、3度目の軍隊生活に入り、同年12月に乗船していた軍隊輸

送船が、屋久島沖西方でアメリカ海軍潜水艦により撃沈され、戦死。27歳でした。

1947年に功績が称えられ、巨人の背番号14は初の永久欠番に指定されます。また、

同年に設立された最も活躍した先発完投型投手に贈られる賞の名前が「沢村栄治賞」

となりました。

 

今回も、最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回は、日本国民の生活が、どう変わっていくのか、勉強しましょう。

【使わせていただいた画像などは、全てネットからお借りしました。ありがとうございました。】