真顔満州事変以後、関東軍は満州の主要部を占領し、清朝最後の溥儀を執政におき、満州国を建国させました。中国と交渉を続ける当時の犬養毅内閣は、満州国を承認しようとはしませんでした。

1932年5月15日、政党内閣に不満を抱く海軍将校らによって、犬養首相が暗殺される五・一五事件がおきました。事件のあと、海軍の長老斎藤実が内閣総理大臣になり、各機関や政治集団から人材を集める挙国一致内閣を組織します。

1932年9月、斎藤内閣は、軍部の主張を認め、満州国を承認し、満州国を実質的に支配します。

1933年2月、国際連盟の臨時総会では、リットン調査団の報告に基づき、満州からの日本軍撤退などの勧告決議案が42対1で可決。この決議を受けて日本は、国際連盟を脱退。

この頃、日本と列強の間には経済摩擦も発生し、日本は国際社会から孤立する道へと突き進んでいくことになります。国民は独走する軍部を支持し、軍部の発言力は増し、政府は軍部に押し切られていました。そのような中、軍部の発言力を決定的に強くする事件がおきました。それは軍部内での二つの派閥争いが関係しています。

 

二・二六事件おこる

1934年(昭和9)には斎藤内閣の後、穏健派の海軍大将岡田啓介内閣が成立。

1935年に、天皇機関説が天皇に失礼(不敬)として国会で問題となる。

陸軍は天皇主権説(天皇が統治権の主体である)を日本の常識にしたかったため、なんとしてでもここで天皇機関説を潰しておく必要があった。特に天皇機関説の発案者である美濃部達吉は陸軍や右翼から徹底的に批判された。岡田内閣は国体明徴声明を出し、美濃部学説を否認した。これによって、自由主義的言論も反国体的なものとして排斥されるようになる。

 

当時、陸軍では皇道派と統制派の派閥があり、その対立は激化し、国家改造運動が活発になっていた。皇道派(農村出身の青年将校が中心)は、今の国家体制を壊して、天皇親政を実現し、天皇を中心とする軍事政権を築き上げようとした。統制派(陸軍省・参謀本部など幕領将校が中心)は、今の国家体制を維持しつつ、要職を軍部が独占し、合法的に軍事政権を築き上げようとしていた。

 

1936年(昭和11)二・二六事件がおきる。

【叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉と下士官・兵】

1936年2月26日早朝、陸軍皇道派の青年将校たちが決起。

※将校とは、主に少尉から大佐までの階級を持つ軍人のことで比較的若手が多い階級

1500人の兵士を率い、皇道派中心の軍事政権を樹立しようとした。思想家北一輝の『日本改造法案大綱』に影響を受け、政財界の癒着・内閣の腐敗を正し、天皇を中心とした軍事政権に改造しようと考えていた。

 

総理大臣官邸に突入し、その時の総理大臣岡田啓介を襲撃したが、総理と間違えて秘書の義弟が殺された。高橋是清大蔵大臣邸では、軍の予算を削ろうとしたという理由で高橋是清大蔵大臣が暗殺された。また天皇の側近の立場であった反対派の斎藤実内大臣、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを暗殺。重要閣僚や警察官など9人が殺害された。首相官邸や警視庁、陸軍省、新聞社などを襲撃。政治の腐敗を正す『昭和維新』をおこなうとし、政治の中心部である永田町を占拠した。

 

二・二六事件では、陸軍省、参謀本部、警視庁などの重要官庁が反乱軍によって占拠されてしまったため、軍首脳部はとりあえず、「軍人会館」に軍の中枢を移し、あわせて、戒厳令司令部を置いた。

【2022年、軍人会館は建て替えが完了し、「九段会館テラス」として新しい形で保存されている。】

 

天皇は鎮圧を命じ、青年将校たちの行動を“反乱”とし、間もなく陸軍統制派と海軍が中心となって、鎮圧にのりだす。兵士たちにもとの部隊に戻るようにとの天皇の勅命が下された。

  

同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布。ラジオでは、「・・既に天皇陛下のご命令が発せられたのである・・」と放送された。「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。

 

日本を揺るがした戦慄の4日間。2月29日、青年将校たちは逮捕され、その命令に従っただけの兵士たちは元の隊に戻った。弁護人なし、非公開、一審のみの暗黒裁判と呼ばれた軍法会議で、事件の実態を明らかにしないまま、反乱の指導者の青年将校17人のほか、その行動に影響を与えた思想家北一輝らが処刑された。統制派は事件後の軍の人事で、皇道派を次々と要職から外し、統制派が軍の実権を握った

二・二六事件で閣僚を失った岡田内閣は総辞職、広田弘毅外務大臣が総理大臣を引き継いだ。何人も残虐に殺されたこの事件で、その恐怖心から政治家も財界人も陸軍の言うことに対して抵抗する気力を失っていく。政府は、軍部の協力がなければ組閣しにくくなり、軍部大臣現役武官制(軍部大臣は現役の軍人に限る)を復活させ、軍部の意向に沿わない内閣の時は、軍部は大臣を出さないことで、内閣成立を阻止できるようになり、軍部が公然と政治に介入するようになった。こうして、軍部の政治的発言力はますます強まり、軍備の拡張も進んでいった。

34才でこの事件に直面した昭和天皇は、陸海軍を動かし、クーデター鎮圧を成功させた。これは結果的に天皇の権威を高めることにつながり、軍事君主として、神格化へと進んでいく。

 


ひらめきラジオ放送は1925年に始まり、最初はクラシック音楽や法学、ラジオ劇と言った教養番組が多かったようです。年を追うごとに一般家庭でも持っている人が増えていきました。昭和時代に人気があったのは、野球や相撲の中継でした。音楽も歌謡曲が増えて、ラジオドラマも盛んになりました。1930年代後半は安いラジオが売り出されて、完全に庶民のものになりました。しだいに戦争の状況を伝える道具になっていきます。歌も軍歌のような戦争の意気を高める歌を流すようになりました。

【初期のラジオにはラッパのようなスピーカーがついていた。】

 

また、大正~昭和初期には特徴のある私鉄も開通しました。阪急電鉄では沿線に宝塚劇場を作ったり、駅ビルをデパートにしました。阪神電鉄では、甲子園球場を作り、球団(今の阪神タイガース)を創設して野球ファンの心をつかみました。東京では1927年地下鉄が開通し、繁華街の浅草と上野を結びました。

 

今回も読んで下さりありがとうございました。

次回は、日中戦争について、勉強しましょう。

【使用した画像等は、ネットからお借りしました。ありがとうございました。】