ひらめき五・一五事件で犬養毅総理大臣が海軍将校に暗殺されると、1932年5月、元老の西園寺公望は、次の総理大臣に、軍部の中でもおだやかな考えを持つ斎藤実海軍大将を選びました。

政府の不拡大方針を無視して進軍した関東軍を、新聞は最初は批判的でしたが、関東軍が勝つたびに新聞の部数は伸び、積極的に応援するようになりました。人々も勝利に喜び熱狂し、政府と敵対していた社会主義者まで政府に協力するようになりました。

国際関係では協調外交がおわり、日本は孤立し始めました。関東軍は、アメリカなど諸外国の批判をかわすために、1932年3月、満州国を独立させ間接的に支配しました。

一方、中国を統一した蒋介石は、日本の侵攻を国際連盟に提訴し、1932年2月~9月、イギリス人のリットン調査団が満州に派遣され調査を行いました。

1932年9月、リットン調査団の報告書が国際連盟に出される直前、斎藤内閣のもとで、日本政府は満州国政府と「日満議定書」を交わして、満州国の独立を公式に承認。人々はそれを歓迎し祝いました。

 

国際連盟を脱退

1932年10月、リットン調査団が提出した報告書をもとに国際連盟の臨時総会が、ジュネーブ(スイス)で開かれた。全権代表は、類いまれな英語での弁舌を期待された外務省出身の衆議院議員の松岡洋右だった。

【松岡洋右(1932年)】

リットン調査団による報告書では、日本の満州の権益を認めつつも、満州国の建国は否認していた。これに対して日本は「日本の軍事行動は、居留民の生命・財産保護のため」であったとして、報告書に異議を唱えた。国際連盟脱退を既定路線としてジュネーブに赴いたわけではなく、松岡たちはできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んでいた。

12月の総会では、松岡は原稿なしで1時間20分にわたる演説をおこなった。それは「十字架上の日本」演説と呼ばれた。日本国内では喝采を浴びた演説であったが、日本の立場は一向によくならなかった。

1933年(昭和8)2月、陸軍の圧力と国民の声におされた日本政府は、連盟総会が満州国の建国を否認する勧告案を採択した場合、連盟を脱退することを決定した。

連盟総会での採決の結果、賛成42:反対1(日本のみ)で、満洲国を否認し、「日本は満州国の承認を撤回すること」を求める勧告案が可決された。この決議を受けて、「日本は断じてこの勧告の受諾を拒否する。」と国際連盟との決別宣言ともとれる発言をした松岡洋右ら日本全権団は、総会の場から退場した。

 

【国際連盟脱退翌日の東京朝日新聞昭和8年2月25日】

連盟脱退を支持していた新聞各紙は、松岡洋右に対して好意的な報道を行い、英雄のように迎えられた。この頃の日本の国全体が、欧米の批判に対して不満を持っていた。それから1か月後、日本は国際連盟脱退を通告し、さらに1934年には、ワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告。1936年にはロンドン海軍軍縮会議からも脱退し日本の孤立は決定的になっていった。

 

満州国は、どんな国だったのか?

ひらめき私の義父母は、満州国で過ごした時期がありました。義父が読んだ短歌にスンガリ―(松花江しょうかこう)という川が出てきます。スンガリ―川はハルピン市を流れる川で、2人はハルピンに住んでいたそうです。義母は生前、満州で料理教室に通っていたと言っていました。ミルクスープなど洋食が得意でした。義父母が過ごした満州国とはいったいどんな国だったのか、とても気になるところです。

 

満州国は1932年から1945年までの13年半、存在した国。首都は新京(長春)。満州国は、多くの民族が仲良く暮らせる国「五族協和」「王道楽土」を掲げた国家を掲げて建国された。五族とは、満州人、漢人、朝鮮人、蒙古人、日本人をさす。

この五族が協力して楽園のような国を作るはずだったが、実際には日本人が優遇され、日本が操る「傀儡国家」だった。

 

 

それぞれの思いを胸に国が掲げた理想を信じ、自由を求めて渡っていった多くの人々。当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け深刻な経済不況に陥り、特に農村経済を支えていた養蚕業は大打撃を受けた。農家は借金を背負い、村や町といった自治体も負債を抱えていた。満州国は日本が世界恐慌で立ち直っていなかった時に生まれた一筋の光であり、希望だった。

1936年に「満州農業移民100万戸移住計画」が国策となる。疲弊した農村の経済の立て直しや食糧増産などを目的に推し進められたが、背景には「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的もあった。

日本の戦況悪化、ソ連軍侵攻。敗戦時にはおよそ160万人近くの日本人が暮らしていた。敗戦後はそれぞれ過酷な道のりをたどることになる。

 

真顔多くの犠牲者を出したのは、満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍、中国残留孤児、スターリンによる60万人ものシベリア抑留でした。結果として、約27万人の開拓団のうち、約8万人が亡くなったと言われています。(満蒙開拓青少年義勇軍は、1938(昭13)年から国が募集を開始しました。満14~18歳までの青少年で組織され、3年間の訓練期間を経て開拓団に移行し満州で農業の担い手になることが大義名分だった。)

義父はシベリアに抑留され3年後に帰国、義母は乳飲み子の義姉を連れて、どこからどのように帰って来たのか詳しいことはわかりません。よく話をしてくれた義母でしたが、もっと聞いて書きとめておけばよかったと思います。高校時代の日本史で、複雑で理解するのが面倒なところですが、本当に学ぶべき重要な戦前の昭和史。受験に集中し過ぎてハイスピードでスルーするのは、残念なことでした。

 

今回も読んでいただき、ありがとうございました。

【使用した画像などはネットからお借りしました。ありがとうございました。】