ひらめき1926年12/25に大正天皇が亡くなり、大正時代が終わりました。

1926年~1989年(昭和64年)1/7までが、昭和時代です。実質的は62年と14日、

私たちが生まれて過ごしてきた長い昭和時代がいよいよ始まります。

【即位初期の昭和天皇1928年撮影、満27歳】

昭和に変わっても、1923年(大正12)におきた関東大震災によって、経済的な混乱が

続いていました。関東大震災の経済的損失は60~100億円(当時の国家予算は15億円

の4~7倍)に上りました。震災の事後処理のため、第2次山本権兵衛内閣は、

震災として、日本銀行に貸し付けを保証させ、経済の回復に努力しました。

しかし、しばしば景気が急激に悪くなる恐慌がおこり、昭和初期にかけて、経済的に

苦しい時代でした。

また、第一次世界大戦以降、世の中は軍縮!ムードが高まり、軍縮も実現しましたが

関東大震災後、軍は組織的な震災救護を行いました。治安維持のほか技術力・動員力

・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会

においても頼れる印象を与えました。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろ

う」という評価は、町にも、マスコミにも溢れました。国民の信頼の的となり、軍縮

の風潮を打破し、安易な兵員の削減や軍縮について再考が必要だと考えるようになっ

たのです。

 

恐慌の時代

震災で支払えない手形を大量にかかえた銀行が出て、1927年(昭和2)、時の片岡

直温大蔵大臣が議会の審議中に、「東京の渡辺銀行が破綻した」と発言しました。

この大蔵大臣の失言をきっかけに、自分の預金を急いでおろそうと中小銀行に殺到し

たのが「取り付け騒ぎ」だった。実は渡辺銀行は、かなり経営状態は悪かったけれど

まだ倒産するほどではなかったのに、結局、その騒ぎで本当に渡辺銀行は倒産。

取り付け騒ぎは全国に広がり、全国の中小銀行に人々が押し寄せて預金をおろした。

中小銀行から、つぶれる心配のない大手の五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一

)に預金を移した。多くの中小銀行が休業に追い込まれる金融恐慌となる。中小銀行

は五大銀行に吸収され、その銀行を持つ財閥はますます強大になっていった。

 

協調外交が終わり、強硬外交へ

【日清戦争(1894年)後の中国について】

日清戦争で敗戦した清朝は、日本と下関条約が結び、台湾を日本へ割譲したほか李氏

朝鮮の独立を認めた。その後も、沿岸地域を租借地とされるなど、欧米列強・ロシア

・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。

 

1911年10月10日に辛亥革命がおこる。革命は瞬く間に広がり、1912年1月1日、

孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京で成立した。

【孫文1910年代撮影】

革命を鎮圧するため、清王朝は袁世凱を起用した。袁世凱は、清王朝最強の軍隊を

率い、孫文と取引をした。清王朝の皇帝である『宣統帝溥儀を退位させ、清王朝

を終わらせる代わりに、自分を中華民国の大総統にするというものだった。

勢いがあるとはいえ寄せ集めともいえる孫文の革命軍からすると、絶対に勝てると

いえる相手ではなかった。孫文は取引に応じ、大総統の座を袁世凱に明け渡す。

袁世凱は約束通り皇帝を退位させ、およそ300年間続いた清王朝は終わることとな

った。1915年、袁世凱は自ら皇帝に即位しようとしたが、周囲に支持を得られず

、皇帝即位をあきらめ失意のうちにこの世を去った。

 

ひらめき孫文は、大総統を袁世凱に譲った後、袁世凱から政権を取り戻そうとしますが

失敗します。その後、日本に亡命して体制の立て直しを図ります。情勢が良くない

には度々日本へ逃れるなど、日本の繋がりが非常に強い人物でした。

「革命いまだ成らず」この有名な言葉は、孫文が人生の最後に残した言葉でした。

全ての民族が統一され、かつ民主的で、民衆が政治的権力を持つ国家をめざし中国

の自由を求めて革命を起こした孫文でしたが、達成を見ることはできず、1925年に

死去しました。

 

中国では清が滅んだあと、軍閥と呼ばれる軍事組織が各地を治め、内戦状態が続い

ていた。

1925年、孫文が死去後、孫文の勢力を引き継いだのが蒋介石で、国民党軍を掌握

した。1926年蒋介石率いる国民党軍が中国統一を目指して北上し(北伐)、各地

の軍閥を平定する。翌年3月には上海・南京を占領し南京に国民政府を樹立した。

 

【幣原喜重郎外務大臣の協調外交】

第一次世界大戦の反省から、1920年代は国際連盟の創設や軍縮によって、平和を

築いていこうという国際協調の考え方が世界中に広がっていた。駐米大使などを

歴任し、第一次大戦後のワシントン会議でも外交官として活躍した幣原喜重郎は、

1924年加藤高明内閣の外務大臣として就任し、協調外交を押し進めていた。

南京の各国領事館は、南京に国民政府を樹立した国民党軍に襲われ、イギリス・

アメリカから共同出兵の提案はあったが、協調外交の幣原喜重郎外務大臣は、

協調を維持しつつ、中国の動きには不干渉で出兵しなかった。

【1929年の幣原喜重郎】

幣原外務大臣は次の若槻礼次郎内閣でも、引き続き外務大臣をつとめていたが、

1927年、取り付け騒ぎによる金融恐慌によって若槻内閣が倒れ、退任した。

 

【次の田中義一内閣では、田中が外務大臣も兼務し強硬外交へ】

陸軍出身の田中内閣は、中国関係の外交官と軍代表を東京に招集した(東方会議

中国統一をめざす国民党軍の北伐に対し、日本の権益を武力で守る強硬路線の方針

が決まった

【東方会議の様子。右から3人目が田中義一(総理兼外相)】

田中内閣は、国民党軍の北伐を妨げようと、1927年~1928年にかけて、日本人を

守るという理由で、3回にわたって山東半島への出兵(山東出兵)を行い、国民党

軍と衝突した。1928年、第2次山東出兵では済南市を占領した。中国側の死傷者は

5000人と言われる。この済南事件は、国際的な批判を呼んだ。

 

関東軍による張作霖爆殺事件

ひらめきここで『関東軍』のことを少しふれておこう。

日露戦争の勝利によって、ロシアから満州の利権を引き継いだ日本は、南部満州へ

の勢力拡大を国家戦略の基本として進めていた。1919年陸軍は、中国からの租借地

であった関東州(遼東半島南部)と南満州鉄道を守るため、関東軍を作っていた。

 

真顔(ちなみに『関東』とは、万里の長城の東にある要塞『山海関』より東側を指す。

元 明 以降は、 北京が首都として定着すると、北京の東を防御する 山海関 の東方、すなわち現代

 中国東北部に当たる地域を関東と呼ぶようになった。清朝末期に日本が遼東半島周辺に設定した

租借地は関東州と名付けられた。)

 

【満州国の首都新京の関東軍総司令部】

 

張作霖は満州を支配していた奉天軍閥の指導者であった。日本は張作霖を支持し味方

に引き入れることで、満州の権益を確保する政策をとっていた。

しかし張作霖は欧米諸国と仲良くなっていき、情勢は次第に雲行きが怪しくなってい

った。当時日本が運営していた南満州鉄道に対抗するために、張作霖独自の鉄道を作

っていこうと考えていた。関東軍にとってはこの状態も気に入らなかった。

 

1926年、蒋介石率いる国民党軍は、国内を統一のために北へ軍を進めて北伐を開始。

日露戦争以来、「日本の生命線」である満州が、国民政府の手中に落ちてしまうこと

を恐れた関東軍は、張作霖に頼らず満州を支配する方法を模索する。

関東軍の河本大作は、張作霖を国民政府が暗殺したかのように見せかけ日中両軍の

衝突を誘発し、それに乗じて関東軍を出動させ、満州を一挙に武力占拠することを思

索した。

1928年(昭和3)奉天郊外で関東軍の軍人が「張作霖爆殺事件」を起こす。

北伐の戦いに敗れ引き上げてくる張作霖を、乗っていた列車ごと爆破し殺害したのが

「張作霖爆殺事件」である。日本政府に伝えず関東軍の独断でやった事件だった。

 

【張作霖爆破事件 関東軍の謀略】

大日本帝国憲法には、天皇が軍を動かす権利を持っているため、天皇の命令を無視し

て勝手に事件を起こすのは憲法違反。関東軍はこの事件を日本で公表せず満州某重大

事件という形でバレないように報道した。

張作霖が爆殺されたことによって満州の支配は、張作霖の息子である張学良に移るこ

とになる。張学良は犯人は国民党軍ではなく、日本の関東軍であることを独自の情報

網でキャッチしていた。父を殺した日本に対して大激怒し、日本に反抗し自分の拠点

に一斉に青天白日満地紅旗を掲げる。この意味は満州の支配権をなんと父の敵であっ

た国民党軍に渡すというものだった。

国民党軍は、思わぬ形で中国を統一することができた。

 

満州を奪い取ろうとした関東軍は、張学良によって見事に失敗。

そして張作霖が爆破されたということは、すぐさま昭和天皇の耳に入ることになる。

総理大臣の田中は、犯人を突き止め厳然たる処分を行うことを確約した。しかし、

政府内の陸軍などが反対し、関東軍の関与を認めず、鉄路守備の不備に関する行政処

分に留める方針となった。事件を曖昧にした田中内閣は、結局天皇からの信任を失い

1929年、総辞職することになった。


ひらめき当時満州は、日本の経済を立て直すことができる日本の生命線とも言われるほど、

重要な土地で、貴重な資源である石炭や鉄鉱石などが取れたので手放すわけにはいき

ませんでした。政府は関東軍の暴走を見逃し、この5年後には満州事変が起こり、

日本の傀儡である満州国を作ることになっていくのです。


今回も最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。

【使用した画像や動画は、ネットからお借りしました。ありがとうございました。】