今日は、暖かくとてもよい天気
正月に帰省することになった二男家族の布団干しをした。
(今年は子どもは誰も帰省しないはずだったが、急遽二男から電話がかかってきた)
今年もあと4日、何となく落ち着かなくなってきた。
とはいえ、車旅記録を今年中に終わらせておきたい。
さて、淡路島の話から
全く前情報がなく訪れて、まず驚いたのは、淡路島は広い。東京23区やグアム島
と同じくらいの広さらしい。日本神話の『国産みの島』としても知られる。
古代より淡路国として存在し、江戸時代には蜂須賀家が阿波国とともに領した。
明治3年、当時の徳島藩淡路洲本城下で蜂須賀家臣が、筆頭家老稲田家の別邸や
学問所などを一方的に襲う事件をおこし、この事件の影響で淡路島は徳島県から離れ
兵庫県に編入された。
洲本城跡~ホテルに行く前に立ち寄った。
国史跡の洲本城は、壮大な総石垣、大石段、全国で数例しかない登り石垣などがある
天守台には1928年に作られた模擬天守閣があり、洲本市街のみならず大阪湾を一望
できる。まさに南海の要塞と呼ぶに相応しい堅城。
淡路島の車のナンバープレートとタマネギ
淡路島で走る車のナンバープレートを見たら、神戸がやたら多い。
あら、神戸からきている人が多いのね・・と思ったら、淡路島のナンバープレートは
全て神戸だった。
温暖な気候で、タマネギ栽培が盛ん。有機栽培のでっかいタマネギを買った。
8個で1300円。ピアノもタマネギだわ・・
淡路島のホテル
洲本温泉には開けた温泉街がある。洲本中心街近くの海岸から展開し、大規模リゾー
トホテルや旅館、企業の保養所が多い。
泊まったホテルの窓から見た朝日は、素晴らしかった。けっして新しいホテルではな
いが、スタッフさんの対応も温泉のお風呂も、料理も大層美味しかった。
大皿のお刺身が運ばれてきて、「お~」と言ってしまった。
伊勢海老も乗っているではないか・・
12/23~お目当ての姫路城をめざして
世界文化遺産の姫路城
姫路城を目の前にした時は、「わあ~きれいやな」と思わず声が出た。空の青さが
一層美しく見せたのかもしれないが、見とれるほどの美しさだった。
さすが世界文化遺産。美しさの象徴は白い漆喰壁。
白い鷺(サギ)が、舞い立つように見えることから、白鷺城と呼ばれている。
大天守の内部は、5階建てに見えるが、地上6階、地下1階の7階構成になっている。
東大柱と西大柱とがあって、地階から5階まで、通し柱となっていた。 ↑
針の頭部を隠すため、六葉針隠しの装飾がある。6枚の葉をデザインしていて、猪目
というハート形の隙間がある。
多くの武具かけがあり、天守は武器倉庫として使われていた。
姫路城は、もとは黒田孝高(官兵衛)のお城だったそうで、羽柴秀吉が黒田孝高
(官兵衛)のすすめで入城し、大坂城を築くまで3年間姫路城主となる。
その後は秀吉の弟秀長→北政所の兄木下家定。
関ケ原以後、家康の娘婿にあたる池田輝政が城主となり、9年の歳月をかけて姫路城
を大改修。この改修によって現在の姫路城の大部分が完成した。
姫路城は、西日本へ追いやった大名たちから徳川を守るために築かれたお城だった。
1617年、本田忠政(徳川四天王の本多忠勝の息子)が嫡男忠刻と千姫とともに入城。
(千姫は7歳で秀頼と結婚したが、大阪夏の陣の時、大阪城から脱出。20歳で21歳の忠刻と再婚。
一男一女に恵まれ、10年間を姫路城で過ごす。忠刻が31才で亡くなり、江戸へ帰った千姫は髪をおろ
し余生を送り、70年の生涯を閉じた。)
西日本の大名を監視するという役目は、江戸時代をとおして続いており、江戸時代の
の城主は計32人。
明治維新後、政府は廃城令を出した。姫路城は陸軍の軍用地とされたために、廃城を
免れた。天守をはじめ多くの建物が競売にかけられたが、解体費用がかさむため放置
されていた。姫路城のひどい状況を心配し、お城の保存が決定した。
1910年に陸軍省によって「明治の大修理」が行われた。
昭和に入り、太平洋戦争中、姫路市はアメリカ軍の空襲を2度にわたって受けた。
市街地が炎上するなか、天守には焼夷弾が直撃したが、幸いなことに不発弾だったた
めに天守は炎上せずに無事だった。
江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に
指定されている。1993年、日本初の世界文化遺産に登録。
長い歴史の中、姫路城は奇跡的に生き残り、今でもその美しさを多くの人たちに伝
えているんだな
岡山県の倉敷へ~着いたのは夕暮れ時
倉敷美観地区のすぐ近くのホステルに泊まった。
朝食のカエフェオレとたまごサンド、ヨーグルトが美味しかった。
それに作ってくれたのが、優しそうなお兄ちゃんで、とても感じよかった
人気の倉敷とは、どんな町なのか気になるところだ。倉敷美観地区とはなんぞや?
倉敷川を中心とする一帯は早くから干拓による田地の開発が進められていた。
倉敷は松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地となり、1642年に代官所が
置かれ、幕府直轄地「天領」となった。周辺一帯は政治の中心地として、また物資輸
送の集積地として栄え、川沿いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町
並みが形成されていった。
備中南部の干拓地で行われていた綿作の発展に伴って、江戸時代中後期には綿加工業
で、商業都市として繁栄した。
明治時代になると、西洋の技術を取り入れた繊維産業が大きく発展。外国産の綿糸に
対抗しようと、政府が民間紡績業の育成を奨励したこともあり、明治21年代官所跡に
倉敷紡績(クラボウ)が創設された。工場には当時のイギリス式の最新機械や設備を
備えていた。以来、倉敷川を通じて、倉敷紡績でできた繊維やさまざまない草製品の
出荷が行われた。倉敷紡績の二代目社長だった大原孫三郎は、紡績業で得た多くの財
産を、倉敷の文化事業や社会事業に還元。大原美術館をはじめとし、郵便局や銀行な
ど、多くの洋風建築が大正から昭和にかけて建てられた。
戦火を免れた倉敷には、戦前からの多くの建物がほぼそのまま残った。戦後、町並み
の保存事業が本格的に始まり、昭和43年「倉敷市伝統美観保存条例」が制定。
翌年には「倉敷川畔美観地区」に指定され、“美観地区”の呼称が初めて使われた。
観光地も、歴史を知って初めてその良さがわかるものだ
さて、後楽園と岡山城については次回で。