1585年、約2年の年月を費やし、
秀吉の大阪城の本丸が完成しました。
戦国時代の城は、山の頂などに作られる山城が多かったですね。
戦うための城でしたから。
世の中が安定すると、政治や商業のため、
交通の便のいい平地に造られるようになりました。
徳川時代に再建されたものの、1665年落雷によって再び焼失。
現在の天守閣は昭和6年(1931)、市長の呼びかけで市民らの寄付により建造されたそうです。
地上55m、5層8階。屋根のしゃちほこ、勾欄下の虎など、秀吉の天守閣を再現したのでしょう。
権威の象徴のような絢爛豪華な黄金の装飾、凄い!)
そこで秀吉は、妹の朝日姫を家康に嫁がせ、
家康は上洛を承諾し、実質、秀吉の臣下となったのでした。
秀吉、全国統一へ
1587年、九州平定
九州では、大友氏と島津氏の争いが続いていた。
停戦の命に従わなかった島津氏征討のため、
秀吉は弟の秀長と共に自ら出陣し、島津義久は敗れ九州平定を終えた。
バテレン追放令
秀吉は、キリシタン大名が多かった九州で、
その信仰を目の当たりにした。長崎のキリシタン大名の大村純忠が、
勝手にバテレンに寄進した領地があることを知る。
さらにキリシタンたちは寺社仏閣を破壊したり、
領民に改宗を強制したり、人々を奴隷として海外に輸出していた。
(これは、ゆるせん!)
秀吉は、キリスト教は日本にとって危険な宗教であると判断し、
バテレン追放令を発布。
イエズス会に寄進されてた領地を没収、日本人奴隷の売買を禁止した。
宣教師によるキリスト教の布教を禁止した秀吉だったが、
南蛮貿易そのものは、中止せずに続けた。
1588年、後陽成天皇が聚楽第を訪れる。
(聚楽第は関白になった秀吉が、政庁兼邸宅として1586年~翌1587年に建立した。
九州攻めから戻ってから、さっそく聚楽第で政務を行った。)
後陽成天皇の聚楽第行幸(天皇の外出)に集まった大名たちに、
「関白秀吉の命(めい)には絶対そむかない」という誓約書をを取り付け、
秀吉は天下人として、地位を確かなものにしていった。
(天皇の権威を利用して、うまくことを進めたのね)
1590年、北条氏へ小田原攻め、関東平定
秀吉はかねてから北条氏の上洛を促していたが、北条氏は従わず。
結局、「惣無事令」に従わない北条氏に宣戦布告する。
![メラメラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/037.gif)
○新しい基準で、土地の面積を隅々まで綿密に調べた。
その際に米の量を計る枡を、京枡に統一し、
戦国時代の農民は、領主の命に応じて戦争に参加していた。
刀や弓、槍などは自分の所有品を持参し、
農民が武装しているのは普通のことだった。
農民らには「惣村」という自治組織もあった。
「惣掟」もそれぞれに決められ、自分たちの権利を守るために
一致団結して領主などに抗議活動を起こし、「土一揆」と呼ばれ、
その為に武士との境目が非常に曖昧だった。
彼らの発言力を弱め、反乱を起こさぬようにして、
農民を完全に支配できる様に「刀狩り」という政策を執った。
秀吉は刀狩りを行う際に、その名目として
「大仏建立の材料に使う為に武器を差し出せ」と命令した。
身分制度の確立
厳格な身分制度がないことで、
農民に自由な権限を与えてしまう原因にもなっていた。
秀吉は、刀狩りを実施した後,1591年に身分統制令を布告する。
武士が町人になることや、農民が商人や職人や武士になることも禁じた。
これによって今までなかった厳格な身分が確定し、
士農工商の基礎ができあがった。
田んぼの面積やお米の量の基準の値は、今もそのまま残っていますね。
豊臣秀吉といえば、「人たらし」のイメージでしたが、
晩年の秀吉は、そのイメージが変貌していきます。
短気で、残忍な性格に変わってしまったと言われています。
何が原因だったのでしょう・・
その辺の所は、また次回にして、今日はここまで。
今回も、私の日本の歴史につき合って下さって、ありがとうございました。
画像や動画は、ネットからお借りしました。