【写真お借りしました】

NHKの大河ドラマで、「13人の鎌倉殿」の初回、

北条義時が姫らしき人をのせ、馬で颯爽とかけていく姿で登場しました。

これこそ、武士の姿。

当時の武士は、馬に乗ること、弓を引いて的に当てることが必須。

弓と馬ができないと、武士としては認められなかったらしいです。

戦いに出る時は、必ず手に弓を、背中に矢を背負っています。

 

さて、そんな武士はどうやって生まれたのでしょうか?

ひらめき10世紀に入ると、班田収授法が崩れ、律令制は乱れ、地方の治安も悪化していました。

武士は、もともと朝廷に仕える人をさす言葉でしたが、

平安時代の中期になると、一つの身分になったそうです。

治安維持のために中央から派遣された押領使、追捕使や国司の中には、

地方に残り、開発領主となり、現地に居残り地方の武士になるものも出てきました。

京都では、天皇や貴族の警備や犯罪の取り締まりにあたる、滝口の武士や検非違使などに

武士は成長していきます。

のちに大きな勢力にとなる桓武平氏や清和源氏は、それぞれ天皇を先祖に持つ武士団として

一目置かれる存在になりました。

 

桓武天皇の子孫の桓武平氏

高望王(桓武天皇の曾孫)】

高望王は、宇多天皇から平の姓を与えられ、平高望を名乗った。

898年、平高望は、京都から、長男国香、次男良兼、三男良将を連れて、

関東地方の上総に 国司として赴任した。

 

当時、国司には4~6年程度の任期が定められていたが、

任期を終えても、京都には戻らなかった。

中央政府(京都)に戻っても、そこには貴族の藤原氏の影響力が強かったので、

地方の方が、安定した地位を確保できた。

在地勢力との関係を深め、常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、

自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、

その治安を守るべく武士団を形成して、高望王流桓武平氏の基盤を固めた。

 

平将門(平高望の三男良将の長男)】

京都で官職を得るため滝口の武士となり、内裏の警護にあたるが、

十数年たっても官職は与えらえず、上総に戻る。

農民とともに土地を開墾し、農地を増やし、

鉄を精錬し、農具だけでなく、武器も生産。

野生馬を放し、軍事訓練をして、武力を強化した。

関東のほぼ全域を支配し、将門の軍は8000まで膨れ上がる。

939年、平将門の乱がおこる

常陸の国司に反抗した藤原玄明を助け、常陸国の支配者となる。

下野(栃木県)上野(群馬県)に出兵し、関東のほとんどを占領。

自身を「新皇」と称して独立国を樹立し、各地の国司を追い出す。

朝廷は、太政官符を発行し、

『平将門追訴(将門を打ったものは貴族にする)』の命を出す。

平国香の息子平貞盛と、下野国(栃木県)の武将藤原秀郷らの連合軍と

下総で対決し、940年、平将門は討ち死に

 

同じ939年、藤原純友の乱がおこる

藤原純友(今の愛媛県伊予の国司)は、海賊を率いて瀬戸内海周辺を攻撃し、

2年後に九州の大宰府を占領。

朝廷は、純友征討の命を出し、源経基を差し向けた。

941年、純友は処刑。

 

939年に起こった、平将門の乱と藤原純友の乱は、承平・天慶の乱という。

この出来事は、地方の武士による初めての反逆で、朝廷を驚かせた。

同時に武士の反乱の制圧は、武士の力に頼るしかないことを知らしめた。

 

 

 

1028年、平忠常の乱

平忠常(平高望の側室の子である平良文の子)は、国司の横暴に対抗し、

安房と上総の国司を襲う。

藤原頼通は、都で摂関家に仕えていた源頼信を派遣する。

(頼信は清和天皇の子孫であり、藤原純友の乱の鎮圧にあたった源経基の子孫)

源頼信は平忠常の乱を鎮めたことで、多くの関東の武士が源氏に従うようになる。

 

 

一方、平維衡を祖とする伊勢平氏の家系は、

関東を離れて伊勢国(三重県)に移り、源氏と同様に朝廷や貴族に仕える。

平正盛・忠盛の父子は、東国に勢力を広げた源氏に対し、

上皇を警護する直属軍である北面の武士となり、取り立てられ、

瀬戸内海や九州など西国を中心に 朝廷での地盤を固める。

 

ひらめき日本史でも有名な平将門、平清盛、鎌倉執権北条氏、坂東平氏の一族も全て、

この平高望を始祖とする武家平氏の流れらしいです。

では東北地方はどうだったのでしょう。

 

1051年、奥州では前九年合戦

奥州の奥六軍を蝦夷の祖先とする豪族安倍頼良は、しばしば国司と争う。

鎮圧のため、源頼義(源頼信の息子)は陸奥の国司として、息子義家を連れて、奥州へ

安倍頼良は降伏し、名前を安倍頼時とあらためた。

3年後、安倍氏は乱を起こすが、源頼義は出羽の清原武則の援助を得て、

1062年、安倍氏を滅ぼす。

この戦の功績により、鎮守府将軍になった清原氏が、

奥州全土を支配するようになった。

 

1083年、後三年合戦

源義家は陸奥国の国司となり、ふたたび奥州に戻ってきた。

清原一族(清衡と家衡)の相続争いで、清原清衡に源義家が加勢し、争いを平定した。

源義家は、ともに戦った東国の武士に恩賞をあたえる。

清和源氏の頼信、頼義、義家は、関東や東北地方の反乱をしずめ、

東国の武士と主従関係を結び、棟梁となり、ひときわ有力な武士となる。

 

奥州藤原氏4代の栄華

後三年合戦で力をつけた奥州清原氏は藤原と名字を変え

藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の4代にわたって栄え、奥羽(東北地方)を支配する。

陸奥国の平泉(岩手県)は、最先端の文化の集まる宗教都市になる。

1105年、藤原清衡は、中尊寺を建てる

 

黄金におおわれた中尊寺金色堂には、藤原4代のミイラが納められている

浄土の姿をあらわした阿弥陀如来像(寄木造り)、

金銀で書かれたお経、金銅華鬘(装飾具)、白磁の水差し(中国製)

平泉周辺は、純度の高い金がとれた

ブランド品である馬、武士の質もよい。

京都に次ぐほどに反映、最盛期には10万もの人が暮らしていた。

東北政治の中心であり、仏教寺院がならぶ宗教都市だった。

 

真顔長すぎて、読むのも大変でごめんなさい🙇

最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。