私たちに多くの学びの場と感動を残し、

東京パラリンピックが終わった。

パラリンピックには、「共生社会の実現」を促すという目的があるという。

先天的にハンディを持っている。また、ある日突然、体の自由を奪われる。

その心の痛みや苦しみは、当事者でなければわからない。

障害のある人、ない人がともに生きる社会は、

いろんな立場の人が、互いに理解したいと考えるところから始まる。

できることの可能性を信じ、ひたすら努力している姿に心打たれ、

これからの自分を見直す時間をもらえた。

 

日本での開催は2回目で、1回目は1964年の東京オリンピックが終わった直後に

開催された。その時に初めてパラリンピックの名称が使われたそうだ。

大分県との縁も深くて,別府市の国立別府病院の整形外科医だった故・中村裕博士が

東京での開催実現に尽力し、日本選手団長も務めている。

黄色い花ーこの時、中村博士は、外国人選手と日本選手の就労状況と社会生活の格差に、

愕然としたという。

外国の選手のほとんどが仕事を持ち、経済的に自立して暮らしていた。

対して日本の選手は53人のうち職業を持っていたのは5人で、

他の人たちは家族や療養所での、保護下で暮らしていた。

この体験をもとに、中村博士は、1964年のパラリンピックの1年後に、

障害がある人が残された能力を伸ばして働ける「太陽の家」を創設し、

『保護より機会を』と唱えた。

1981年に始まった世界初なる車いす単独レース『大分国際車いすマラソン大会』

博士が提唱し、今年は40回記念大会を迎えるー黄色い花

 

今回の東京パラリンピックを振り返って、強く印象に残った選手

馬術・・宮路満英選手

宮路選手(63歳)は、脳卒中の後遺症で右半身にまひがある。

馬場の近くに立って演技順を指示する「コマンダー」を務めた妻の裕美子さんの指示のもと、

落ち着いた表情で左手を使って馬を操り、一体感あふれる演技を見せた。

お互いにかけたいことばを聞かれると、宮路選手は「ありがとう」と笑顔で答え、

裕美子さんは「この場に立てるのは限られた人だけなので、ありがとうと言いたい」と言った。

 

競泳・・木村敬一選手

競泳男子100メートルバタフライ(視覚障害S11)決勝が行われ、

4大会連続出場の木村敬一選手(30)が金メダルを獲得した。

レース後、「すごい幸せです」と語った木村選手は、

先天性の疾患により2歳で両目の視力を失った。

残された能力を最大限に生かし、泳ぎ続ける姿で多くの人たちに希望を届けてきた。

 

プールの壁が見えない視覚障害者のレースには、壁が近づいてくると、

選手の頭や背中を棒でたたいて知らせる 「タッパー」という人がいる。

タイミングが合わないと壁にぶつかったり、どんでん返しが起きたりするので、

とても大切で、なくてはならない存在。

木村選手のタッパーは、中学校からの水泳のコーチである寺西真人さん(62)で、

長年、阿吽の呼吸で支えてきた。

寺西さんに順位を聞き、2位の富田選手と抱き合って喜び合う。

 

女子マラソン・・道下美里選手(44)

小学校4年生のとき角膜の病気を患い、中学生のとき右目の視力を失いその後、

左目も弱視に。

盲学校に入ってから28歳のときダイエット目的で陸上を始め、マラソンにハマった。

 

後半のガイドランナーの志田淳さんと、金メダルのゴール。

ガイドランナーは「一緒に戦う競技者」。一方的な「支援」ではないそうだ。

コーチとともにレースプランを立て、それを実行する。メダルこそないが「メダリスト」だ。

レース後は、道下さんと前半後半のガイドランナーお二人の3人が並んで会見。

「大会の意義は?」という質問に、志田さんは、

「障がいを持った人と健常者が一緒に輝けるということを、

理解いただけたのではないかと思います」と答えた。

金メダルの表彰式は、前半のガイドランナーを務めた青山由佳さんと2人で表彰台に立つ。

道下は 「最高の伴走者と最強の仲間がいたので、自信を持ってスタートラインに立てて、

まわりを気にせずに自分の走りができて、ここにたどり着きました。

環境を作ってくれたのは周りの仲間。みんなで祝福したいです」と話す。

 

選手の方々はもちろんのこと、その選手に寄り添い、

ともに生きている人々にも、同じように拍手を送りたいと思った。