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県民投票全市町村で実施
1月24日報道記事はこちらclick → ☆彡
名護市辺野古の埋め立てを県民投票が終わるまで待ってもらう為の署名です
運動はホワイトハウスからの回答があるまで続けることが出来るそうです
まだ署名されてない方 ぜひお考え下さい。 署名お待ちしております。
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今週の本題でーす
※ 写真は全てインターネットと勉強本から引用です
今回は前々から反対している「県民投票不参加表明」についての内容です。興味が無い方もいらっしゃると思いますが。本当に少しづつで構いません。「お付き合い」と思って読んで頂けたら幸いです。
いつかのBlogの中でもご紹介しましたが、人類は1人1人の専門分野が混じ合うことで非常に複雑な仕組みをつくり出し、人類の進歩に繋げてき来たと話した人がいました。これは人類の歴史全てに共通する話だと私は思います。
沖縄の基地問題も始めは戦争に負けた勢いで米国に土地を接収されてしまい「土地を返せー」から始まったと話しだと浅知恵ながら思います。それから時は立ち、政治と絡みながら基地は巨額のお金を生むようになりました。いつの間にか「職業政治家」達の仕事はそのお金を基に地元を盛り上げる方法がないか模索する事が主流になっていました。
それがまずい事だと気付いた政治家や県民は、徐々に真逆の行動を起こし始める事になります。沖縄県民の心の中には「純粋に基地問題と向き合いたい」思いが根強くあります。しかしそうはさせない政治との闘いの歴史を簡単ですが今回公開ホヤホヤの記事でご紹介いたします。賛成派の策も進歩して巧妙化していきます。それに比例するように反対派も巧妙に対応します。
現在、沖縄県民が選んだ知事は基地に反対する玉城デニー知事です。県民が選んだ答えは
「辺野古移設反対」です。なぜ、地方自治体は県民の投票権を奪うのか正直私は理解に苦しみます。議会制でもなんでも政治家は民の声を代弁するのが仕事なはずなのに、なぜ今回紹介する記事が書かれる事になってしまったのでしょうか
どこの県でも、政治家は政党の声より県民の声に律儀に対応するべきではないでしょうか。私にとって、歪んだ政治の世界を垣間見ることができる記事でもありました。
ここまで読んで頂き心より感謝いたします。
では、民主主義を守り続ける沖縄県民の生き様をご覧ください。
※ ここより先は記事のコピーです。
沖縄、不屈の歴史 ハンストは権力への意思表示
毎日新聞2019年1月19日 08時46分(最終更新 1月19日 08時48分)
元米兵による事件に抗議する沖縄県民大会で「怒りは限界を超えた」のプラカードを掲げる参加者たち=那覇市で2016年6月19日午後3時18分、野田武撮影
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設の賛否を問う県民投票(2月24日)の実施を5市が拒否していることに抗議し、「『辺野古』県民投票の会」の元山仁士郎代表(27)が15日から宜野湾市役所前で続けているハンガーストライキ(ハンスト)。絶食による体を張った意思表示だが、沖縄では戦後27年間の米国統治時代から現在に至るまで、民衆が非暴力の手段で米軍の圧政や基地問題などの政治的な課題に抵抗してきた歴史がある。
「沖縄の先人もいろいろな手段で抵抗し、権利や土地、暮らしを守ってきた」。元山さんは、県民投票を「実施しない」と表明した宜野湾など5市の市長に再考を求め、15日朝から水だけを口にするハンストを始めた。
ハンスト4日目に入った思いを語る元山仁士郎さん=沖縄県宜野湾市の市役所前で2019年1月18日午後8時47分、遠藤孝康撮影
沖縄の抵抗の歴史は長い。沖縄北部の離島・伊江島では1955年、武装した約300人の米兵が集落の家や畑をブルドーザーでならし、火を放って演習場用地として奪った。戦後に長く米国統治下に置かれた沖縄では、こうした「銃剣とブルドーザー」による米軍の土地の強制接収が各地で展開されていた。
瀬長亀次郎・元那覇市長
生活の糧となる農地を奪われた伊江島の島民は、後に「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(故人)を先頭に、55年7月から沖縄本島をむしろ旗を掲げて歩いて回る「乞食(こじき)行進」で約7カ月かけて窮状を訴えた。非暴力の訴えは共感を呼び、米軍の土地の強制接収に抗議する大規模な「島ぐるみ闘争」へと発展した。
当時の資料を展示する伊江島の「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の家」の謝花(じゃはな)悦子さん(80)は「(県民の4人に1人が亡くなった)沖縄戦を経て、平和な沖縄を子供に残したいという願いや大人としての責任が、抵抗の背景にあった」と振り返る。
57年1月に那覇市長に就任した瀬長亀次郎さん(故人)も沖縄の「不屈のシンボル」として語り継がれる。米軍の基地拡張に反対した瀬長さんは、逮捕や市長当選後わずか11カ月での公職追放など米軍の圧政にさらされながらも、ユーモアを交えた演説などで反基地運動の先頭に立つ姿が圧倒的支持を集めた。
瀬長さんの資料を展示する那覇市の「不屈館」の館長で次女の内村千尋さん(73)によると、瀬長さんも本土への渡航制限撤廃を求めてハンストに取り組んだことがあったという。内村さんは「沖縄の人たちは常に、理不尽なことに抵抗したり、声を上げたりすることで、民主主義や権利を勝ち取ってきた」と語る。
72年の本土復帰後も沖縄では、米軍による事件・事故や、教科書の記述などを巡る政治的課題に抗議するため、数万人規模の県民大会などによる抗議が繰り返されている。内村さんは言う。「なぜ若い彼が今回そこまでやらざるをえない状況になってしまったかを、5市長だけでなく、日本の多くの人たちに考えてほしい」【遠藤孝康、比嘉洋】
沖縄の抵抗の歴史
1945年6月 沖縄戦が終結
55年7月 米軍の土地の強制接収に対し伊江島の島民が窮状を訴える「乞食行進」を開始
56年7月 土地を守る四原則貫徹県民大会に約15万人が参加
57年11月 反基地運動の先頭に立っていた瀬長亀次郎那覇市長が米軍の布令によって追放 ※シーサーとキジムナー追記:当時は沖縄県自治体の上に米軍司令部の組織が存在しており、県民の民意を米国側は簡単に覆すことが出来ました
71年5月 沖縄返還協定に抗議する県民大会に約10万人が参加
72年5月 沖縄が本土復帰
95年10月 米兵3人による少女暴行事件に抗議する県民大会に約8万5000人が参加
2007年9月 沖縄戦の集団自決を巡る文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める県民大会に約11万人が参加
12年9月 米軍機オスプレイ配備に反対する県民大会に約10万1000人が参加 ※ 安全性が問題視されていたタイミングです
16年6月 元米兵による女性殺害事件に抗議する県民大会に約6万5000人が参加
掲載元はこちらをclickしてください
国家の安全の為に暴行されたり殺害される生贄が必要なのでしょうか
そんな事が今の世の中あって良い事なのでしょうか
なぜ平和な日本で27歳の若者がハンストしなくてはいけないのでしょうか
中央政権はもっと真剣に基地と沖縄と向き合うべきではないでしょうか
皆さんはこんな沖縄を見たくて観光に来てくださるのですか
そうでなければほんの少しでもいいです。沖縄県民の本当の心の声を表に出せるように力を貸してください。もっと報道に取り上げてもらい、全国中で認知し、議論してほしいです。
官邸の屋上に身元不明のドローンが着陸した時のような俊敏できめ細やかな対応を沖縄県にもしてほしいと望みます。
皆さんが本当に望む沖縄県になるために私たち琉球民族と沖縄県民は頑張り続けます。
最後まで読んでいただいて心より感謝いたします。
ありがとうございました
私たち 琉装している琉球民族です
来沖してね みんな待ってるよー
県民投票は
天皇陛下の式典と同じ日の
2月24日
※ 下記の写真広告は2018年12月20日の沖縄県の新聞各社が掲載した広告です
「選挙で僅差で勝っただけで地元自治体が県民の投票権を奪う権利はないはず、反対を表明している宜野湾市では73% 石垣市では80%の市民が県民投票を望んでいます。自治体の皆さん、県民は国に心の声を届けたいだけです。市長、少なくてもこの不参加表明に関しては議会が、間違っていると数字が示していませんか?
本当に市民の事を思うならフェアーに行きしょうよ
私は県民投票不参加表明に反対します。」
もう貴重な一枚ですね 元気かな安室さん
もっと知って下さい沖縄のこと・名護市のこと
では、今週も「にふぇーでーびる(琉球語=(人''▽`)ありがとう☆の意)」でした
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シーサーとキジムナーより