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文禄三年他桃山時代~江戸時代

宮崎県西臼杵郡高千穂町大字河内34観音堂境内

凝灰岩製

 河内は、国道三二五号線上、阿蘇郡と接し、高千穂と高森の間、高千穂寄りに位置している。その河内の中心地で、高千穂、高森、馬見原、竹田を結ぶ分岐点、T字形三叉路の山側に、高い石段が見える。熊野鳴瀧神社で、「日向地誌」臼杵郡郡誌川内村、社の項には、中川内神社とある。旧称、熊野三社大権現を明示四年に小社を合祠して改称し、明治四十年には、さらに、上川内神社(旧称、鳴瀧六社大権現)ほかを合祠し、熊野鳴瀧神社と改称して今に至っている。

 この石段の中ほどに、木造鳥居があり、その脇の大銀杏の木と観音堂にはさまれて、自然石塔婆が三基並んでいる。(写真一)そのうち、中央碑に紀年銘がある。
中川内観音堂石塔群

中川内観音堂石塔群 (1)

中川内観音堂石塔群 (2)

(一)逆卍字自然石塔婆(写真二、図一)

1594.08.29.  文禄三年甲午八月二拾九日敬白

凝灰岩製

地上高;一八二・〇(センチ、以下略)、基部幅八八・〇、上部幅六三・〇、最大厚三一・五。長方形、板状の大碑で、厚みは、右側面が厚く、左側面へ薄くなっている。碑面は、石にさからわず、凹凸をつけたまま磨き、背面は、切り出しの状態に残している。

 碑面中央上部の径四四・〇の大月輪中一杯に、逆卍字を薬研彫りし、その下に三行
 

     文禄参年甲午

八還秋山浄翁大禅定門 霊位

     八月二拾九日敬白
 

の銘がある。月輪、逆卍字、銘文ともに、肉眼でも明瞭に読み取れる。郡内の他の遺物と比較して、文禄三年ころの造立になるものとみていいように思う。

 この碑について、宮崎県史蹟名勝天然記念物調査報告「日向の金石文」瀬之口伝九郎編(昭和一七年)には、
 

        文禄三年甲午

(月輪中卍)八還秋山津  大禅定門
八月二拾九日敬白
 

自然石高サ六尺、巾上部二尺四寸二分、厚サ六寸乃至一尺、圓相徑一尺
 

とある。

 秋山浄翁大禅定門について、五ヶ瀬町在住の西川功氏は、その著書「高千穂太平記」

に、高千穂の三田井親武に仕えた、河内村亀頭山城々主で、文禄三年八月に延岡の高

橋元種に亡ぼされたという、甲斐将監惟房(一説に、大神惟房ともいう)を当ててお

られる。

 現在、小堂は、観音堂と呼ばれ、均整の十一面観音小像が本尊になっている。同太

平記には、法印寺跡(興善寺ともいう)とされ、また、興善寺を天正十六(一五八

八)年、三田井氏による建立としている。興善寺については「日向地誌」にも記載が

あり、川内村古迹の項に「興善寺址中川ニアリ宗派及ヒ癈毀ノ年月考フへカラス今宅

地トナル」と書かれている。

中川内観音堂石塔群1
中川内観音堂石塔群1 (2)

中川内観音堂石塔群1 (3)

中川内観音堂石塔群1 (5)
中川内観音堂石塔群1 (6)

(二)カーン種子自然石塔婆(写真三、図二)

 文禄碑の左側に立つ。

 凝灰岩製

 地上高七九・〇、基部が広く、幅六一・〇で、最大厚は、下から三〇くらいのとこ

ろで二七・〇をはかる。

 正面だけを整え、上部中央月輪中に小さく不動明王と思われる種子「カーン」を彫

る。その下に一行
 

 帰寂浄林禅定□    *7字目は「門」か。
 

とある。他に、刻字は見当たらない。
中川内観音堂石塔群2

中川内観音堂石塔群2 (1)

 

(三)バイ種子自然石塔婆(写真四、図三)

文禄碑の右側にある。

凝灰岩製。

地上高五六・〇、基部幅二四・〇、厚さ二三・〇、最大幅三〇・五。

正面だけを整え、上部中央の月輪中に小さく毘沙門天と思われる種子「バイ」を彫

る。月輪下部は、現在、碑面が割れ落ちているため、銘があったかどうかは確認でき

ない。
 

 (二)(三)両碑の造立時期は、文禄碑にそう遅れたものでない、桃山時代後半のも
のと考えていいのではないか、と思われる。

中川内観音堂石塔群3

中川内観音堂石塔群3 (1)
中川内観音堂石塔群3 (2)


 




 

(四)石塔々身(写真五、図四)

 凝灰岩製

 観音堂の床下に置かれている。

 高さ三六・〇、幅二九・五の直方体で、一面を欠失し、残りの三面に、それぞれ月輪を面一杯にとり、そのなかに、委縮して弁の先が尖った線刻蓮座上に、キリーク(無量寿如来=阿弥陀如来)、タラーク(宝生如来)(註1)、ウーン(阿閦如来)の金剛界四方四仏中の三仏の種子を浅く薬研彫りする。これによって、欠失した一面には、アク(不空成就如来)が彫られていたものと考えられる。このうち、種子ウーン月輪内右肩部に「源喜」の二字がある。

 これだけでは、塔の種類や造立の時期がはっきりしないが、線刻の蓮弁や種子、それに、同所にある三基の自然石塔婆などを考えあわせると、桃山時代ころのものとし

ても見当はずれではないと思うがどうだろうか。
中川内観音堂石塔群4 (1)

中川内観音堂石塔群4 (2)

中川内観音堂石塔群4 (3)

中川内観音堂石塔群4 (6)

 




 

(五)その他

 凝灰岩製

 自然石塔婆の背後に、直方体の塔残欠がある。側面一面だけに彫刻があり、他三面は無地のままにする。

 円相を面一杯に浅く平底に彫り込み、中に、薄肉彫りで、犬に似た四足獣を体は横向き、顔を正面に向けた姿に彫り残す。オオカミかもしれない。

 元の塔形は、不明。表面の粗い仕上げや彫刻から、江戸時代製作のもののように思われる。
中川内観音堂石塔群5 (2)

 文禄三年碑以外の遺物は、神社参道を造成するために、現在、碑の並んでいるすぐうしろの斜面を掘っていて、土中から出てきたものだそうである。

 

(一九七八年四月二九日調査)

参考文献;宮崎縣史蹟名勝天然記念物調査報告12『日向の金石文』(宮崎県、1942.02.

 

『日向地誌本編』(平部嶠南著、青潮社、1976、復刻版)

『高千穂太平記』(西川功著、青潮社、S,47.06.復刻版)



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