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1282年11月29日  弘安五年十一月廿九日





大分県中津市本耶馬渓町大字東屋形字口ノ坪587 屋成家墓地





凝灰岩製





塔高;161.5センチ





基礎幅;76.0 基礎最大幅;78.0 





基礎側面中央高;30.0 基礎側面端高;





蓮台下部径;64.0 蓮大上部径;47.5 蓮台高;7.5





基礎高;37.5





塔身径;46.5 塔身下部径;45.5 身部高;49.0





首部径;32.0 首部高;5.5





塔身高;54.5





笠軒幅;74.5 笠棰型幅;70.0 笠下部棰型幅;46.5 笠上部幅;25.0





露盤上部幅;17.5





笠高;36.0





覆鉢径;18.0 請花径;17.5 相輪高;33.5





 石材の表面加工は、全体に丁寧な仕上げである。





 基礎は、比高を低く作る。側面幅は、端より中央部を2.0センチ膨らませる。側面高は、中央部を高く、端を0.5センチ低くする。上面に、単弁8葉の円形蓮座を作り出す。単弁の蓮弁は、厚く、単純な装飾性の無い特異な形をしている。





 塔身軸部は、基礎、笠に比べて細身の円筒状で、中程をわずかに膨らませる。肩部は、曲線で首部につなぐ。側面四方に、小さ目の月輪を配し、中一杯に4字共字画を変えた端正な刷毛書の梵字「キリーク」を薬研彫する。首部は、上下同径の円筒形にする。





 笠は、幅を基礎最大幅より3.5センチ小さく作る。軒幅に比べて比高は低い。笠下面には、首部径より大きな径の薄い円座を設けて、首部に乗せる。軒は、薄く作り、真反の面とわずかに平行部を作って反り上げる面とが見られるが、何れも曲線に無理が無く、自然で伸びやかな力強い反りを示す。軒裏に、厚めの垂木型を加える。屋根の照りは、浅く緩やかで、隅棟の曲線も同様にする。笠の上部は絞って、薄い露盤を作り出し、その上面は薄く斜めに削って、伏鉢の下径に合わせる。笠上面には、四角の枘穴を作る。





 相輪は、伏鉢、請花と4輪を残して、その上は欠失する。伏鉢は、薄く、下辺は蓮華の弁先状の円弧を連ねたような加工を施しているが、破損部が多く、全体を確認できなかった。請花は、下に浅鉢状を加え、その上辺周囲に先丸の小さい花弁を間を開けて8葉を配置して廻らす。その上の輪は、明瞭な区分で輪間を深く彫り込む。下部に、四角の枘を作り出し、笠上面の枘穴に入れる。この枘と笠枘穴は、形と大きさが合っており、この事からも、相輪が元からの部材である可能性が高いことを示していると思われる。





 基礎が低く、笠も基礎に対応して比高を低く作り、軒反に無理が無く左右に充分に伸びて安定感があり、バランスの良い好塔である。





銘は、塔身軸部にある。四方月輪中に字画を変えた梵字「キリーク」、月輪に挟まれた余白の1面に4行の文字を彫る。





「奉造立供養寶塔壹基」





「為正阿弥陀佛尊霊比丘尼信阿」





「沙弥蓮智幽霊往生極楽也」





「弘安五年壬午十一月廿九日孝子等敬白」





簡単な銘ながら、比丘尼信阿、沙弥蓮智の2人は、末尾にある孝子の亡くなった両親、と正阿弥陀佛「尊霊」の3名の極楽往生を願って孝子等により追善供養塔として宝塔が建立されたことが理解される。





また、笠裏の棰型下面に、三重方形枠内に全て主尊を釈迦如来種子「バク」にした梵字曼荼羅を8方に各1個、計8個が全て墨書で描かれている。曼荼羅内は、中央方形枠内の中央に月輪中「バク」、その四方の月輪中種子4尊、2重目枠内4角と中央に計8種子、3重目枠内1辺に9種子計32種子、総計45種子を配している。その内、1曼荼羅だけは、3重目枠内種子が1字少ない31種子計44種子になっている。8個の曼荼羅は、中尊の「バク」以外は、全て異なった種子配置になっている。下から覗き込んでの判読であるため、十分に読み取れない部分が多くあった。再調査で、更に精確を期したい。





 塔身は、阿弥陀如来種子、笠は、釈迦如来と2尊の配置である。





全体の塔形から受ける印象は、基礎が低く、円筒形の軸部と首部、軒が薄く伸びやかな軒反り、薄い露盤、特殊な形の請花、輪間を深く彫り込むところなど、石造塔というよりは、金属製宝塔を手本として作られたように思わせるところが多く見られる。特に相輪請花の特殊な形は、金属製や木造塔相輪請花の弁間が開いた形に倣っているようにも見える。大分県内にこの後出現する岩戸寺国東型宝塔(弘安六年)についても、塔の構成、塔姿、蓮座彫刻などから、金属製舎利塔を手本に造立された可能性もあるのではないかと指摘されている。遠隔地ではあるが、同時期の勝福寺五輪塔(弘安四年、熊本県球磨郡あさぎり町)は、これも瓦製塔の影響が感じられる造形である。この他、基礎上に反花座を持つ宝塔には、藤井八幡宮宝塔(弘安6年、熊本県山鹿市)がある。上記、弘安銘を有する3基の宝塔の塔形からは、それぞれ異なった個性が見られ、お互いの関連性は考え難い。また、東屋形宝塔は、個人の追善供養塔で、同所にはその後も類似宝塔が継続して造立されており、他2基、特に国東型宝塔は如法経塔としての造立が主流であり、造立目的からも関連性は低いと考えられる。弘安の役直後の混乱の時期に、持ち運べ、直接目視できる金属や瓦製小塔の存在が、これら地方の石造塔造立への機運を醸成する役割を担ったとは考えられないだろうか。後考を俟つ。





 





1988.08.31調査

東屋形宝塔弘安五年中津市 (4)

東屋形宝塔弘安五年中津市 (1)

東屋形宝塔弘安五年中津市 (5)
東屋方宝塔拓影弘安五年中津市
東屋方宝塔種子実測図弘安五年中津市
東屋方宝塔銘拓影弘安五年中津市
東屋方宝塔銘実測図弘安五年中津市
東屋方宝塔銘弘安五年中津市
東屋方宝塔笠裏弘安五年中津市
東屋方宝塔実測図弘安五年中津市



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