大分県豊後大野市大白谷字松尾2227 寺屋敷
南北朝時代中期後半~南北朝時代後期前半
1492.02.吉日 延徳四年二二歳二月吉日
凝灰岩製
松尾の集落の外れ、県道688号線を北へ向かう山道の入口左側、丘陵突端の小丘頂上に整地された1区画が有り、宝篋印塔残欠、宝篋印塔塔身、六地蔵残欠などの石塔残欠群が並んでいる。その内、現状最大の石塔である。
塔高;136.0センチ
基礎下部幅;37.5 基礎側面上部幅;38.0
基礎側面高;26.5 基礎上部幅;30.0
基礎高;31.5
塔身下部幅;26.5 塔身上部幅;27.0
塔身高;22.5
塔身上部枘下部幅;24.5 塔身上部枘上部幅;24.0
塔身上部枘高;1.5
笠下部幅;32.0 笠軒下部幅;41.5 笠軒上部幅;43.0
笠上部幅;19.0
笠高;27.0
露盤下部幅;17.0 露盤上部幅;17.5
露盤高;10.0
隅飾下部幅;17.0 隅飾頂部幅;17.5
隅飾高;8.0
1輪下部径;13.0 請花下部径;10.5 請花上部径;13.5
請花高;3.5
四方火炎宝珠下部径;12.5 四方火炎宝珠最大径;16.0
四方火炎宝珠高;12.0
相輪高;53.5
基礎は、上に2段を作り出す。側面が高く、その分、比高が高くなっている。基礎側面は、下部より上部幅をわずかに大きく逆台形にする。また、側面は、大分粗い仕上げになっている。これらから、室町時代後期に入ってからのものではないかと思われる。上面には、塔身を受ける浅い枘穴を彫り込む。現在、上に乗っている塔身下部幅よりも幅は小さいので、基礎と塔身は別塔の部品を重ねていると考えられる。
塔身は、高さより幅を大きく作る。基礎側面と同じく、下部幅より上部幅をわずかに大きくする。側面は、四方とも線刻で4角の輪郭を彫る。その内、正面1面だけは輪郭を2重にして、正面と右側面の2面に、各5行、計10行の銘を彫る。
(正面)
「奉造立供養」
「寶篋院塔一基」
「勝山髙公禪定門」
「并大乗妙典一字」
「一石全部此功徳」
(右側面)
「頓證菩提速到」
「涅槃道略者也」
「信心施主藤原」
「朝臣衛藤家通」
「旹延徳二二歳壬子二月吉日/孝子/敬白」
この銘によって、室町時代中期の半ば過ぎの延徳四年(1492)に造立された宝篋印塔塔身であることが確認できる。塔身上部には、幅広の角枘を作り出す。上に乗る笠下面には枘を入れる枘穴の加工が無いため、露出して重ねられており、塔身と笠は、別塔の部品による組み合わせとわかる。
笠は軒下2段、軒上3段を作り出す。各段の側面は、無地で、軒の1面に軒厚一杯に小さな筆書きの梵字「バン」彫る。笠下部に塔身の枘を入れる枘穴の加工は無く、塔身とは別塔として作られたことがわかる。軒下の作り出しは、2段とも薄くする。軒厚は、軒下2段を加えた厚より少し厚くする。軒上は、3段で、2段を軒厚より少し厚く、3段目はそれより更に1センチ厚くする。軒と軒下2段は、上辺幅より下辺幅を小さくした逆台形、軒上2段目と3段は上辺を小さくした台形に加工する。3段目は、他段より厚く、上辺を小さくして傾斜を強くしているので、宝形造か露盤を意識したものと思われる。隅飾は、1弧、少し外に開き、下辺幅より背を低くして、隅の立ち上がりは軽い曲線で起りを付ける。れる。側面は、上部から輪郭を付けたように伸ばした蕨手文を線刻する。形は、豊後大野市から大分市まで大野川流域に分布する石大工「玄正」作宝篋印塔笠に類似した作りである。異なっているのは、隅飾1弧で隅飾側面に輪郭を取らず、下辺幅を小さくして、軒上3段とも側面が無地仕上げになり、軒の1面に梵字「バン」を彫る、笠下部に塔身を入れる枘穴が無いなどである。また、隅飾が上に開く角度を「玄正」作のものと比べると、初期のものに近い角度になっている。上部に、丸枘穴を彫り込む。
相輪は、露盤、請花部、9輪、請花、四方火炎宝珠を1石で作る。露盤は、背を高くして下部より上部を少し大きく逆台形にする。請花部は、断面四角の九州様式請花部に作り、1個を欠失する。隅飾は、1弧、少し外に開き、隅の立ち上がりは軽い曲線で起りを付ける。側面は、上部から輪郭を付けたように伸ばした蕨手文を線刻する。下辺幅より背を高くしている以外は、笠隅飾と同様の作りである。9輪は、太めの線刻で区分する。8輪の所で折れたのを接着して復元してあり、9輪目は確認できない。請花は、浅鉢状に上拡がりながら小さ目の作りで、側面の3分の1程は接着剤が覆っているが、残りの部分から彫刻は無いことが確認できる。四方火炎宝珠は、最大径を請花径より2.5センチ大きく作る。宝珠に火焔を張り付けているが、火焔は、大分傷んで欠けている所が多い。下部に丸枘を作り出す。笠上面の枘穴とよく合っている。
笠と相輪は、笠隅飾と請花部隅飾が同形の1弧、側面の線刻蕨手文も同じで、もとからの組み合わせと考えられる。笠軒上の段形は、この地域の主流として盛行した石大工「玄正」作宝篋印塔に倣っているが、側面は無地にするなど異なった所が見られる。笠隅飾は、「玄正」作品より大分小さく、輪郭も付けず、2弧の所を1弧にするなどが異なっている。相輪は九州様式で、請花部隅飾は笠隅飾と同形に作る。この小型1弧の隅飾と相輪の形は、九州様式相輪を持つ宝篋印塔として先行する大化宝篋印塔(文和二年、1353)に近似している。隅飾側面の線刻蕨手文、控えめで小さい側面無地の請花、露盤が高いなど異なった所もあるが、同一石大工の製作の可能性が考えられる。大化塔と比較すると、笠軒、各段側面の明瞭な斜め加工、笠隅飾の角がわずかに起った曲線で立ち上がる、相輪では、露盤が逆台形で高くなりすぎ、四方火炎宝珠の曲面の変化などに、時代の降下が確認できる。笠隅飾の開きは、大化塔と同程度に止まっており、造立の時代は南北朝時代中期後半頃ではないかと思われる。
計測により、基礎と塔身は、別塔の積み重ね、塔身と笠も別塔の積み重ねであることが確認できた。基礎と笠は、基礎上部幅より笠下部幅が2.0センチ大きい。基礎は、比高が高い所から、室町時代後期のものではないかと思われる。
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