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1533.11.26 天文癸己十一月念六日
佐賀県武雄市若木町川古5955 秀岩寺境内
安山岩製
当初からのものが揃っている完形の塔である。
塔高;169.5センチ
基礎下部幅;48.5 基礎側面上部幅;47.0 基礎側面高;25.0
基礎上面幅;38.0 基礎高;34.5
塔身下部幅;31.0 塔身最大幅;32.5 塔身上部幅;31.0 塔身高;32.0
笠軒上部幅;41.5 笠軒下部幅;36.5 笠軒厚;7.0
笠下部幅; 33.0 笠上部幅; 22.5 笠高;32.5
隅飾部下部幅;40.0 隅飾部最大幅;50.5 隅飾高;20.0~21.0
露盤幅; 19.0 露盤高; 12.0
請花部下部幅;15.0 請花部上部幅;18.0 請花部高;7.0
刹輪下部径;15.5 刹輪最大径;16.0 刹輪上部径;13.5 刹高;21.5
上部反花部下部幅;16.0 上部反花部上部幅;14.0 上部反花部高;6.5
宝蓋盤幅;16.0 宝蓋盤高;2.0
上部請花部下部幅;14.0 上部請花部上部幅;15.0 上部請花部高;6.0
宝珠下部径;11.5 宝珠最大径;15.5 宝珠高;15.5
相輪高; 70.5
基礎は、上2段造り出し。上2段の幅は、側面幅との差が小さすぎてかなり窮屈な感じがする。側面上部幅を下部より少し小さくしている。上部2段も下部より上部幅を僅かに小さくする。また、側面と上部2段までは、奥行きが正面幅より各1.0センチほど大きくなっている。
塔身は、上下幅を少し小さくして、中央部をふくらませている。
塔身四方に、梵字「タラーク」「キリーク」「アク」「ウーン」の金剛界四方仏種子を細い刷毛書きで薬研彫する。
基礎正面と四方の種子の下部左右に各2行の刻銘がある。
(基礎正面)
「俊/明」
(塔身)
「タラーク /秀/岩」 「キリーク /天文/癸己」 「アク /十一月/念六日」
「ウーン /馬渡/甲州」
*干支の干「癸」は略字になっている。
「己」は「巳」 が正しいが、金石文では巳を己にして彫っているものがたまに見られる。
笠は、軒下1段、軒は下段より厚めに取って、軒下部を大きく内傾させる。軒下部の3分の1くらいのところに、線刻を巡らしている。これは垂木型の界線を示していると思われる。最上部の段は、側面上辺幅を少し狭くし更に上面を斜めに削って露盤に繋いでいる。幅に比べて高さは4.0センチと低いが、宝形造りを志向しているようにも見える。
隅飾は、笠上端より2.0センチ低くしているが、大きく造り出す。1弧輪郭付、隅飾り下部に小さな剣先型装飾を薄肉彫りして加える。隅は隅飾に似た形の小さい単弁で重ねた2重隅飾になり、それに大きさをそろえて横に並べた剣先型4葉を加えている。この小さい隅飾り1弧は、鎌倉時代中期造立の九州様式相輪請花部の隅に付けられている「+隅飾1弧」と考えられる。また、剣先型の4葉の装飾は、誕生寺三重塔(鎌倉時代後期、現、千葉県鴨川市小港183誕生寺)の相輪隅飾装飾と同意匠で、椰子の葉状隅飾を表現していると思われる。
相輪は、露盤から宝珠まで1石で作る。
露盤は、背を随分高く造る。上部から1.5センチのところに線刻で四面に界線を巡らしている。
請花部は露盤と同じ幅の断面四角で上部に横長の長方形を作り、下部は露盤上面から2センチのところで切り込み露盤と直線で結ぶ。その側面上端を0.5センチほど開けてそこから露盤上面までを使って、隅に1弧2重隅飾を薄く浮彫し、正面中央に単弁1葉とその両側の隙間に細い間弁を1葉ずつ加える。単弁、小間弁2葉は、通常の蓮弁の形になっている。
刹は、線刻の3輪で、その上下を幅高く残しているので、5輪を表現したとも取れる作りになっている。断面は全体に丸みを帯びた四角で、エンタシスにも見える曲線で上部を細く絞り、宝蓋に繋ぐ。反花部、請花部ともに下部の請花部と同じ意匠にしている。宝蓋盤は、薄板状で鎬を作り上下面を斜めに削って反花部、請花部と繋いでいる。
宝珠は、下半分は側線を直線的に請花部につなぎ、上半分だけを曲線でつないで、頂部を鈍く尖らせている。側線の曲線は弱く、室町時代後期以降の様式である。頂部は少し欠けている。
完形で、各部が揃い、彫刻も殆ど傷みの無い状態なので、時代様式の基準作として重要である。
基礎、および塔身に銘が分散して彫られていること、笠軒が大きく内傾すること、隅飾が1弧で大きく、上部が外へ大きくせり出していること、相輪の請花部、上部宝蓋の構造が弁数まで同様で、宝珠の形も似通っている等、これに先行する高木瀬東正法寺の文明甲辰銘宝篋印塔(1484年佐賀市高木瀬東3丁目)に非常に近い内容を持っている。
・基礎上2段造り出しの1石:基壇と2段1石の組み合わせ、
・軒下1段;軒下2段
・刹3輪:刹5輪以上、
・四角請花部、反花部の彫刻が四角側面薄い浮彫:各弁独立して圧肉に彫り出す
など細部には違いも見られるが、それらの違いは、49年の時間差から考えれば当然で、直接手本にして設計されたと思えるほど基本構造は似通っている。
このことは、肥前の室町時代後期以降に造立された宝篋印塔の時代様式を考える上で、非常に重要なことになる。正法寺文明甲辰銘宝篋印塔が、室町時代後期に肥前で造立された大量の宝篋印塔の1つの大きな起点となっているということを示しているからである。
*正法寺文明甲辰銘宝篋印塔については、事情が有って調査が出来ず、資料をここで提示出来ない。また、調査資料はこれまで作られていないようで、探しても発見できなかった。目視確認だけなので、誤りが無いことを願っている。
2010.05.16.調査
2020.09.15.調査
























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